いつか、地に伏すその時は。


エゴイズムの裏側で愛を



『 良い時も悪い時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、
死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることを ここに誓います 』



 人生を隣り合わせて歩く人々の、誓いの言葉。
 時間潰しに手に取った恋愛小説の中で、主人公達は凛と宣言する。

 少し、羨ましかった。

 神の前で宣誓する事も、愛する者と添う事も、自分には決して出来ない。
 相手に誠実でありたいと願うからこそ、他愛無い約束すら交わさない――交わせないのだ。


「……どうした?」
 低い声が背後から耳元で発せられて、リナリーの身体がぞわりと総毛立つ。
 てっきり眠っているものだとばかり思っていたのに、その声は寝起きのものとは程遠かった。
 手にしていた小説をサイドテーブルに置き、男の手が導くまま、身体の向きを180度回転させて彼に向き合う。
「ちょっと目が冴えちゃっただけ」
 正直な本音だったが、神田には何か気に食わなかったらしい。
 丹精な顔が不機嫌そうに歪む。
「余裕じゃねぇか」
「え?」
 歪んだ顔が艶を帯びた笑みに変じて、リナリーは彼の思うところを悟る。背骨の上をスーッと滑っていった無骨な指に、少女の背が反り返った。
 数時間前まで男に支配されていた身体は、本人よりも彼の手に従順だった。
「神田!」
 思わず悲鳴をあげるリナリーの額に、なだめるような神田のキスが降る。
「しねぇよ。さっさと寝ろ」
 普段は悲しいほどそっけないくせ、二人でいるこんな時はぶっきらぼうでも優しい。
 馬鹿、と口の中で呟いたリナリーは、髪を梳かれる感触に目を閉じた。

 なぜだろう。
 似ても似つかぬ、小説の誓いのキスシーンが思い出される。

 新郎は新婦のベールをそっとめくり、誓いの証として唇を重ねるのだ。


 リナリーは瞼を伏せたまま、目の前の細そうでいて厚い胸板に額を寄せる。
 耳をくっつければ、きっと彼の確かな鼓動が聞こえるだろう。実際そうして、安心した時もある。
 だが今日は額という小さな部分を接触して、心の奥底に抱いてきた想いを吐露する方を選んだ。
「……ユウ」
「あぁ?」
 穏やかだった顔が、一転不機嫌なものになる。
 己の中性的な名を嫌う神田は、恋人であるリナリーにすらファースト・ネームを呼ばれるのを嫌がる。
 二人きりでなければその名で呼ぶなと言われるところだが、今は空気で拒否を示すにとどまった。
 彼の多少の機嫌の上下など気にしないリナリーは、すこしだけためらってから、言葉を唇に乗せる。
「私より先に死なないで」
 わずかに甘かった空気が、凍った。


 梳かされていた髪が引っ張られ、2人の黒い瞳がしっかりかち合う。
 見下ろす男の眼は、訝しげな光を灯して鋭くなっていた。
 その視線に負けないように少女は続ける。声が震えてはいないかと少し心配で、心臓がツキツキと痛んだ。
 けれど、言わなくてはならないと、断固と命ずる何かが身体の奥にある。
「他には何もいらないから」
 ささいな約束も、手を繋いで歩く幸せも、夢見る未来も。
 恋人という関係の男女が、普通にするであろう全てを望まない。
 だから。
「お願い。
 私より先に死なないで」
 それは、あまりにも身勝手な願いだと自覚していた。

 大切な人に置いていかれたくない。
 そんなわがままと、恐怖がある。
 彼以外にも同じ事を望む人はいるけれど、口に出せる相手――本気で懇願する相手は、彼だけだろう。

 神田は、いつものように「そんな事分かるか」などと否定しなかった。
 じっとリナリーを見詰め、逸らさない少女の瞳を覗き込んでくる。
 互いに明日の事すら分からない身の上で、共にいる事の方が少ないのだから、この願いは到底無理なものだと現実的に判断する理性はあるけれど。
 どうか、と。
 彼女は、細くも消えないなにかに縋るように、神田を見詰め返した。


 長いような、短いような、そんな時間が過ぎて。
 神田はようやく、口を開く。

「良いぜ。お前より先に死なないでいてやる」
 根負けしたような感のある声音はどこまでも冷たかったが、先ほど固まった空気を溶かしていくものを潜ませていた。

 自分が希求したものだというのに、リナリーは信じられないとばかりに目を丸くする。
 ゆっくりと言葉の意味を反芻し、理解すると、奇跡目の当たりしたかの如く幸せそうに笑う。
 喜びと、哀しみ、自責、そんなものが混じりながらも、大輪の花が綻ぶようにうつくしく。

 そんな愛らしく笑む、難しい要求をした恋人を、神田は奥底にドライアイスの熱を持つ眼で見下ろし、言った。
「だから、お前が死ぬ時は、俺の前で死ね」
 リナリーの願いと、同じくらい残酷な代償。
 だがそれは彼女を傷つけはせず、少女の笑顔は毛筋ほども変わらない。

「お前を殺すものが俺に分かるように、俺の前で、死ね」

 少女の髪を梳いていた彼の腕は、いつの間にか華奢な肩を強く掴む。
 肩に痛みを感じるほど抱き締められながら、リナリーは湧き上がる幸福感に目を閉じる。
「俺が、お前を殺すものを殺せるように」
 恐ろしい言葉の列挙は、まるで睦言のように少女の鼓膜を震わせた。


 ―――どんな約束より、幸福より、未来よりも。
 この願いを聞き届けてくれるのならば、それだけで。

 それだけでもう、この戦争の中を生きていけると思った。


 新婦にでもなったかのような気持ちで、心の底からの誓いを口にする。

「―――うん。私が死ぬ時は、あなたの前で」


 永遠の愛を誓う言葉よりも重いそれは、エゴに塗れた唯一無二の約束だった。










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