たとえ、この身が地に伏しても。


離さない、離す事などない




 視界が明滅する。
 傷を負い、血を流した身体は限界を超え、今すぐ休息につけと警告するが、それに反抗して歩を進めた。
 足を動かす原動力は――恐怖。
 認めたくはない。AKUMAと対峙しても覚えない感情は、たった一人の少女によって引き起こされている事など。

「リナリー」

 波立つ感情の原因――膨大な数のアクマとの戦闘をこなした、今回の任務のパートナーの名を呼ぶ。
 同僚であり戦友であり恋人でもある彼女は、両手を膝につき肩で息をして、必死に崩れ落ちまいとしていた。

「……終わった、よ」
「ああ」
 声を出す事はおろか、息をする事も苦しいのはリナリーも神田も変わりない。
 リナリーの無事、イノセンスの所在が彼女にある事を確認し、離れた位置で呼吸を整える。

 戦いで景色の変わった町並み。
 カラカラ……と、半壊した家屋から様々なものが零れ落ちる。
 アクマが潜むのは人の中。
 そこにあったはずの営みは、脆く呆気なく壊れる。

 今日得られた勝利は絶対のものではなく、現在の勝利者たるエクソシスト達の明日は確実なものではない。

「――行くぞ」
「うん」
 手はどちらも差し出さない。
 恋人関係にあるはずの二人は、今まで一度も手を繋いで歩いた事はなかった。

 手を繋ぐ、という事は、手を塞ぐ、という事。

 それは片手が使えない事を意味し、アクマに襲われた時の対応の遅さを招く。
 対アクマ戦闘のスペシャリストである二人には、そのような愚かな行為をするという選択肢は存在しない。

 約束を交わさないのが、暗黙の了解であるのと同じように。


 神田とリナリーの間において、先の約束というものは存在しない。

 いつ死ぬかも分からぬ身の上である事は、彼等自身が一番良く知っていた。
 だからだろう。
 先の話は出る事無く、守れぬかもしれぬ取り決めは成されない。
 それが彼等の、精一杯の誠意だった。


 刹那的な恋。
 先の見えぬ、未来描けぬ関係だという確信さえ、ある。

 そのせいなのか。

 共に眠る事が叶う時、神田はリナリーを離さない。離せない。
 寝返りを打つ事も許さず、腕の中に閉じ込める。


「ユウ……?」
「寝てろ。まだ当分止まねぇ」
「うん」
 自らの腕の中に、子供のように安心しきったリナリーを抱く時の充足感。
 小屋の外で吹き荒れる、本部への帰還を阻んだ猛吹雪にさえ感謝しても良いほどだ。

 暖炉の燃え盛る炎。雪でびしょ濡れのコートは乾かす為に広げられ、あちらこちらに紅く染まったガーゼや包帯が散らばる。
 雑然としている小屋を見回し、リナリーが再び眠りに落ちたのを確認した神田は、自分達を包む毛布を少しだけめくる。
 手早く済ませた応急処置は、どうやらきちんと役目を果たしているらしい。
 彼女のどの包帯からも血が滲んでいない事を確認し、裸の少女が風邪を引かないようにそそくさと毛布を手繰り寄せる。
 彼女と同じく何も纏わぬ青年の肌に、毛布の感触は優しく暖かだった。


 すぐ側に、武器と死ぬ覚悟を。
 腕の中に、リナリーと生きる覚悟を。
 相反する二つのものと、唇を彼女の額に押し付けて甘い香りに混じる汗と血の匂いを感じつつ、神田は目を閉じる。


 いつもの夜の如く、決して彼女を離さないであろう自分を予感しながら。


 抱き締める腕を、緩めない自分を知っている。
 けれど。
 最期の一線を越えて選ぶのは、互いでない事も知っている。


 本当のところで、相手が一番では無い、一瞬の、不毛な、けれど無意味ではない関係。
 願う事ならば。

 この手離さぬまま息絶えれば良い、と。


 闇に落ちる間際の意識で、絶対にない最期の到来を、戦う運命の聖職者は祈った。









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