『この日、この時を与えたもうた神に感謝を』
 ――それは、割とよく聞く感謝の言葉。


しろい時間



 ザワ、と教団本部内にどよめきが走った。
「帰ってきたぞ!」
「あの3人か……良かった……」
 神田ユウ、ラビ、リナリー・リー、という、攻撃能力に優れるエクソシスト3名が投入された事から、よほど過酷と予想されていた任務があった。
 彼等と親しい者はその安否に憂う日々が続いていて、3人と探索部隊の無事な帰還は喜びと共に迎え入れられる。
 さほど懇意でない、また感心がない者にしても、頼れる味方の生還はやはり喜ばしかった。
「お、おい! あれっ」
 笑顔が浮かんだ団員達の顔が、一瞬でぎょっと引き攣る。
 第一発見者を含め、輪となっていた彼等の眼に入ったのは、颯爽と歩いていくみっつの人影。
 神に魅入られし者だけが着る事を許された団服は夥しい血に塗れ、着用者の動きに併せて翻る。

 ざわり、と。
 先程とは異なったざわめきが、人々の間に広がっていく。
「ひどいな、ありゃ」
「ああ。よっぽどの戦闘だったか」
 血臭が漂ってきそうな凄惨たる有様に、頼もしいエクソシスト相手に恐怖を覚える。
 彼等は数多の感覚に優れる戦闘のエキスパート達だ。そういった囁きが聞こえぬわけではないだろうに、3人は何も言わず、何の表情も浮かべず、科学班室長の執務室へ消えていく。
 その姿は、恐ろしくもあり、見事でもあった。



 黒の教団本部は広い。
 研究施設に資料室、武器の保管庫、団員達の居住スペースなど、挙げていけばキリがないくらいだ。
 その中には、緑溢れる庭園も存在している。
 日々戦っている組織とは言え、憩いや癒しは必要と先人も思ったのだろう。そして常に誰かがそう思ってきたから、庭園は管理され、美しく在った。
「お」
 子供の頃からの遊び場であり、溜まり場であった庭園に足を踏み入れたラビは、先に来ている2人を見つけて唯一曝け出されている目を眇める。
 神田とラビとリナリーが集まる時、最初に集合場所に来るのは神田。次がリナリーで、最後がラビだ。いつも順番は変わらない。
 先程まではアクマの血で染まっていた真っ黒な服装だったのに、今はコムイの強制命令で3人共なぜか真っ白な服を着せられているので、色鮮やかな草木や花の中で彼等だけが浮き上がっていた。
 そんな服装でもイノセンスだけは手放さず、ラビはゆっくりと定位置にいる恋人と幼馴染みに近付いていく。
 見ていると、美しいドレスのリナリーが、木に凭れて目を瞑る神田の両頬に手を当て、彼の右瞼に唇を落とした。
「…………リナリー、俺の前でそんな事するもんじゃないさー」
 これが神田以外の男ならば、瞬殺ものである。

 本部にいる限り、いつも3人で一緒にいた。
 教団に子供がいるなんて珍しいのだから、自然な流れだろう。誰かと何かを共有するのは、ほとんどこの中の人間とだった。
 それはラビとリナリーが恋人になった今も変わらない。
「ラビ。お疲れさま」
 ほわりと笑って、両手を差し伸べるリナリー。
 恋人ではない男にキスをして、なおかつその現場を彼に見られても平静なのは、ラビが怒らないのを知っているから。
「あーもー。お姫様のその癖、直さなきゃ駄目さ」
 がりがりと後頭部を掻き毟り、腰を折り曲げて彼女の腕に納まる。
 リナリーは、先程と同じように青年の頬に手を添わせ、露わになっている左の瞼に口付けを贈った。

『おかえりなさい』

 行為にこめられたのは、そんな言葉。
 彼女が、兄や――両親から与えられたのだろう、たわいない挨拶。

 神田やラビを出迎える時、必ず彼女がしてくれる祝福だ。

「ユウ〜。お前もそろそろ、リナリーのコレを遠慮するさ」
 仮にも俺の彼女、とリナリーの背に腕を回して抱き上げたラビが情けなく申し立てると、神田は器用に片目だけを開けて、鼻を鳴らす。
「知るか」
 彼がリナリーに向ける感情が恋愛でこそないがとても大きくて、終生一番の女性だと感じているのを知っている。
 そんな男が、少女のくれるささやかでもっとも嬉しいものを、拒むはずがない。
「大丈夫よ、ラビ。唇にするのは、ラビだけだから」
「……そうじゃなきゃ、さすがの俺も怒るさ……」
 無邪気にのたまうリナリーに、がっくりと額を合わせる。横目で見ると、神田はもう目を閉じていた。
 これが3人の関係。
 傍から見るといびつだけれど、当人達にはとても美しい形。

 少女の額や瞼や頬に口付けの雨を降らせつつ、ラビは神田の隣に腰を下ろす。
 次に彼女といられる――3人でいられる時なんて、いつかは分からない。
 この短い幸せな時間を、精一杯味わおう。


『この日、この時を与えたもうた神に感謝を』

 思い出す、今この時を、神に感謝する祈りの言葉。
 そう呟く者の気持ちは良く分かる。
 分かるけれど、何かが引っかかる違和感。

「ああ、そうさ」
 納得の呟きを落としたラビに、リナリーが首を傾げ、神田が律儀に目を開く。

 この時は確かに愛しいけれど。
 感謝するのは、時間ではなくて。

「ラビ?」

 覗きこんでくる少女と、横目でこちらを窺ってくる青年。
 神に感謝するのは、この2人を生み出してくれた事。出会わせてくれた奇跡。

 だから、ラビの祈りの言葉は、あれじゃない。


「――――"この人達を与えたもうた神に感謝を"」

 ぼんやりと、しかし大事そうに囁いた青年に、恋人は微笑み、友は呆れた顔になる。
「何を今更」
 当然の事を、と、いつも今のラビの気持ちを抱いていたのだろう神田の発言。リナリーは黙って頬にキスをくれる。


「んじゃ、寝るさ」
「そうね」
「ああ」
 語る事は、多くなくて良い。
 戦の急先鋒たる彼等は、寄り添う温もりを感じられる事が至福と知っていた。
 リナリーを真ん中にして、3人で並ぶ。
「おやすみなさい、神田。ラビ」
 彼女は眠る前の挨拶をすると、当たり前のようにラビの膝に頭を預け、目を閉じる。
「おやすみさ、ユウ。リナリー」
「……おやすみ」
 神田もリナリーに続いて視界に蓋をするのを見て、ようやくラビはゆるゆると目を細めていった。

 深く関わるな、といずれ継ぐ名を持つ師は事ある毎に諭す。
 我等はブックマン。
 戦争を記すのが生業の、ブックマン以外の何者でもない者。

 ――場合によっては、この愛しい者達とも袂を別つ事になるのだろうか。


 そう考える度に、心臓がひやりと氷で撫でられるような感触がする。

 想像する事すら恐ろしい"もしも"を、ラビは胸の置く深くに仕舞いこんだ。



 "この日、この時――この人達を与えたもうた神に感謝を"


 その言葉こそが、名を捨てた者が抱く感謝と真実。




inserted by FC2 system