軍師殿より、直々の命令が下された。
 曰く、「ナナミに酒の耐性をつけ、酒との付き合い方を叩き込め」
 かくしてビクトールは、ナナミを連れて酒場に訪れたのだった。


お酒のチカラ




 優秀な鬼軍師の言うところ、この命令には二つの意味があるらしい。
 一つは、軍主の義姉という立場上、近い将来名代として立つ事になるであろうナナミの事前対策。外交に酒は付き物であるからして、自身の酒量を知り、慣れておくのは重要な事である。
 もう一つは、無理しがちで結局倒れてしまうことの多い軍主への牽制。
 義姉(あね)を政治的・軍事的に利用するのに絶対反対のリオウに、彼女を名代として働かせたくなければ、過ぎる労働をセーブしろという忠告である。
 ナナミが名代になるという事態は、今のところ余程の事がない限りは有り得ない。もしあるとすれば、軍主がどうしようもない状態の時だけだ。そのどうしようもない事態を減らす為の、リオウ自身の自覚を引き出す策だそうである。
 それらの説明を受けた時、ビクトールは軍師という人間にほとほと関心したものである。
 良く考えている。
 しかも、一石二鳥は当たり前らしい。
 軍主に少なからず睨まれるであろうこの役を、ビクトールは二つ返事で引き受けた。
 気持ちの半分はリオウが無茶しなくなると良いと願って、もう半分はタダ酒目当ての素直な欲だ。何しろ、今回かかる酒代は全て公費なのである。
「ナナミ、お前、酒を飲んだ事は?」
 カウンター席に腰掛けながら、ビクトールが問う。
「15になる歳のお正月に少し」
 ナナミは淡々と答えて同じ席に着き、事情を知っているレオナがすかさず水を出してくれた。
「うちにあったお酒は、料理とじいちゃんのたまの晩酌にしか消費されなかったよ」
 レオナに軽く会釈をしながら、小さく笑ってナナミは言う。
「そんなにホイホイ買えなかったから、じいちゃんいつもちびちび飲んでた」
 姉弟の極貧生活振りは話に聞いていたので、ビクトールは苦笑するだけにとどめた。 「しっかし、お前が素直に週の言う事を聞くとは思わなかったぜ」
「そう? 何で?」
「何でってなぁ…。ピリカの事であんなに口論してただろうが」
「あれはあれ。今でも怒ってるよ。
 でも、シュウさんは基本的にこの軍の事を考えてるから、よっぽど気に入らない事以外は従う―――それが、リオウの為になるから」
 その顔に迷いはないく、切なくなるぐらいの強さがあった。
 わずかな胸の痛みを誤魔化すように顎を撫で、ビクトールはレオナに自分の酒を注文する。
「しっかり覚えろな」
「うん。よろしくお願いします」
 笑うナナミの事を、彼は初めて賢いのだと思った。

 レオナの酒場には、多種多様な酒が揃っている。
 軍が費用の大半を交易で捻出しているせいか、様々な地域の人間がいるせいか、種類には事欠かない。
 酒のプロであるレオナと相談していくつかの酒を見繕い、小さなグラスに注いでもらってカウンターに並べる。
「お前がリオウの代わりに行く酒の席なんて、パーティか会食か宴会かそれぐらいだ」
 自分用に頼んだビールを飲みつつ、ビクトールが説明を始める。彼自身そういった場に出席する事はほとんどないが、長年傭兵業をしていたので知識はある。
「そういうところで、とぎつい酒はあんまり出ない。
 口当たりの良い、軽いやつが多いだろう。ま、時には例外があるだろうがな」
 色とりどりの酒に目を奪われているナナミの耳には、右から左に流れているに違いない。
「だからって、空きっ腹には入れるなよ。回るぞ。
 言った通り、メシは食ってきただろうな?」
「うん。腹五分目だよね」
「上出来だ。
 じゃ、飲んで見ろ」
 言われたナナミはえっとたじろいで、いくつもある酒を見回す。
「どれから?」
「……どれでも良いって」
 変なところでぬけているナナミに、ビクトールは大きな肩をがっくり落とした。

 ワインにシャンパン、カクテルと、用意されたそれぞれの酒に口を付けたナナミに、つまみに手をつけていたビクトールが訊ねた。
「どれが美味かった?」
「え? う〜ん……」
 最後のグラスを空にしたナナミ、少しとろんとした目を向ける。
「これだけ色々あんだかた、一つぐらいはあるだろ?」
「う〜ん、えっとね、2番目に飲んだりんご味の」
「ああ、あれか。甘いから飲みやすかったろ」
 酒豪の彼にしてみればジュースみたいなものだが、酒慣れしていないナナミにすれば口に合うだろう。
「今自分がどんな感じが分かるか?」
「ちょっと身体が熱いかも」
 一応、まだ冷静な思考回路はあるらしい。
 極端に酒に弱くはないらしく、ビクトールはほっとした。全く酒を受け入れない体質ならば、そういう席への出席はさぞかし辛いだろう。
「酒が不味いか?」
「んー……飲めないほど不味くはない」
「飲み続けたいと思うか?」
「ううん。お酒の良さがまだ分からないから」
 ナナミの正直な物言いに、自他共に認める酒飲みは苦笑する。
「ゆっくりで良いから、酒を楽しめるようになってくれや。
 本当なら、こんな酒は教えたくなかったんだがなぁ……」
 軍主が普通の少年であった事を、軍主の義姉が普通の少女であった事を知る傭兵は、痛みを堪えた声で呟く。
 どこか遠くを見る彼の横顔には、この軍の大人達がよくする顔があった。
 自分達が止められなかった戦争の幕引きを、リオウのような子供に託してしまった――託すしかなかった、己の不甲斐なさを知る先人の顔。
 義弟や自分によく向けられるそれに気付いたナナミは、言いたい事はあったが、今は黙って空のグラスを弄ぶのだった。

「あははー、ビクトールさんたら変な顔〜」
 陽気な少女の声が、城内の廊下に木霊する。
 失礼な言葉も酔っぱらいの戯言と聞き流したビクトールは、感傷を振り切るようにとはいえ、調子に乗った自分の迂闊さを後悔していた。
 ナナミが酔わない内に、パーティーでどうすればいいのか教え込んだのではあるが、作る料理は爆弾なのに、酒に関しての味覚は良かったナナミの感想が面白くて、あれここれもこれもとつい色々な味見させてしまった。
 種類の違う酒を飲むと酔いやすいのを失念していた彼が悪いのは明白である。
 結果―――。
「その顔はなぁんですか。ナナミちゃんと一緒にいるのが不満だっていうの」
「いえいえ、滅相もございません」
 適当に答えて、ビクトールは腕の中のナナミを抱え直す。
 軽い気持ちからの行いは、少女の運搬という労働をもたらした。
 軍の精鋭中の精鋭であるナナミだが、その身体は驚くほど軽い。それなりの腕力を誇るビクトールには、片手で十分抱き上げられた。
 けらけら良く笑うナナミは、恐らく笑い上戸なのだろう。ビクトール個人としては、泣き上戸よりは好ましい。
 時折会う人々は、まず二人の姿にギョッとして、それから酔ったナナミを見て納得する。若い男を中心に、時折恨みのこもった視線を向けられたりもした。
「ほらナナミ、着いたぞ。降りろって」
 ようやく部屋に辿り着いたビクトールは、なんだか大人しいナナミに声を掛ける。
 と、彼女は素早くビクトールの首に腕を回し、ふぅーっと耳に息を吹きかけた。
「そんなつれない事言わないで?」
 耳元で囁かれた声には艶があり、言い終わった直後に誘うように耳を舐められる。
 身体を走ったゾクゾクする感覚を無理矢理押し殺し、三十路を迎えている成人男性は努めて冷静になろうとした。
「お前なぁ、そんなのどこで習った」
「キャロの花街の姐さん方に」
「……何でそんな知り合いがいるんだよ」
 小さな田舎町だと聞いているキャロに花街がある事に驚きつつ、それとは別の事を口にする。
「じいちゃんが死んで、私、身売りして稼ごうかと思ってたんだよねぇ。だって他に働けそうなトコ無かったんだもん。街の人には嫌われてるしぃ。
 どうしたらなれるか考えてたら、ちょっとした出来事があって姐さん達と知り合って、教えてもらったんだぁ」
 けろりととんでもない事情を暴露して、ナナミはぎゅうっとビクトールに抱きつく。
「このお城、広いんだもん。好きだけど、嫌い」
 まるで幼子のような呟きに、ビクトールは大きく息をつく。さてどうしようかと思い始めたところ、ナナミの細い指がつうっと首を滑っていった。
「ナナミ!」
「いっちゃ、ヤだ」
 ビクトールの手が放れたら自分は独りになると知っているナナミは、酒の力を借りていつになく素直に言う。子供のような言動とは反対に、その手と表情は娼婦のそれで、ビクトールは頭の隅からヤバイと言う声が聞こえる。
 どんなに厳しい戦場でもくぐり抜けてきた傭兵の猛者は、聖人君子ではないのである。
「ビクトールさぁん」
 泣きそうな甘い声に、ビクトールは何かが切れる音を聞いた。
 ドサリと、ベッドが重いものを乱暴に乗せられて抗議をあげる。
「ん……ぅ」
 口を塞がれたナナミが苦しそうな声を出す。だがそれはビクトールに飲み込まれ、くぐもってきちんとした音にはならない。
 しばし少女の唇を味わっていたビクトールは、彼女の反応が全く無い事に訝しんで顔を上げる。ナナミは、酒のせいか口付けのせいか定かではないピンクの頬をしながら、規則正しい寝息を立てていた。
「あのなぁ……」
 いくら本気ではないとはいえ色事の一端をしていたというのに、寝るだろうか。
 誘い方を身につけているというのに、異性に対して全く危機感がない。
 一瞬前までは紛れもなく男としてナナミに向かい合っていたビクトールは、まるで父親になったような気分で溜息をつく。
「こりゃ、他の男の前で飲ませられんな」
 言ってから、彼ははっとして口を押さえた。
 今の台詞は、倍も年の離れている少女に抱くものを気付かせてしまう。
「酒のせいだ。酒の……」
 自分を暗示させるようなそれは、本心から目を背けたいという心の現れ。
 無防備に眠るナナミの靴を脱がせ、布団をかけてやったビクトールは、最後に少女の髪を撫でて部屋を後にした。

 後に彼が、この件とは別の理由で軍主の怒りを買うのは別の話である。





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