父の死を、招いたのは彼女だと言っても過言ではないだろう。
 彼女に対して、負の感情の一片も抱いていないと言ったら嘘になるだろう。
 だが…………。


憎しみと愛しさは両立するか否か




 髪を、洗ってあげた事がある。
 いつの事だったか……戦いも無く、城内の散歩が出来るぐらいには、仕事の少ない日。

 頻繁に増築される城では、大工仕事の音がするのが常で、いたるところで塗装作業が行われているのも日常だった。
 彼女は、食事の支度に忙しい母親達の代わりに子供等の相手をしていたらしい。数人の大小の子供と鬼ごっこをしていたようだった。
 微笑ましい光景に目元が緩み、ボリスは足を止める。さすがに気配に聡いナナミは彼の存在に気付いて、会釈をよこした。
 特に仲が険悪なわけではない。だが親しいわけでもない。
 軽く頷いて返答としたボリスは、両腕を背中で組んで周囲を眺める。
 活き活きと仕事に従事する職人達。健やかに育っている子供達。見ているだけで心が温まる光景だった。
――と、元気に走り回っていた子供の一人が、塗装作業の為に置かれていた梯子にぶつかってしまった。梯子の上には職人がおり、彼はわずかな震動を感じただけで済んだようだが、微妙なバランスで置かれていた塗料の缶はそうはいかなかった。
「あっ!!」
 叫んだのは誰であったか。
 人々の視線は、子供に向かってまっさかさまに落ちていく缶に集中した。
「危ないっ!」
 子供達が口々に叫び声を上げ、ボリスが駆け出そうとしたその時、誰よりも早く動いた者がいた。
 けたたましい音を発して缶が地面に転がり、塗料をぶちまける。その場に居合わせたどの人間も言葉が出ず、缶の落ちた地点を凝視していた。
「ナ、ナナミ姉ちゃぁぁん!!」
 梯子にぶつかり、落ちてくる缶に驚いて硬直していた子供が、自分をかばってくれた人の名前を叫ぶ。
「よーしよし。大丈夫よ。どこも当たらなかった?」
「う、ううう、うん」
「泣かないね。偉いぞ」
 ナナミは、まず子供の頭を撫でて落ち着かせ、それから少しだけ注意をする。その子供は、恐らくこれから二度と不注意で作業中の場所に近付かないだろう。
「……ナナミさん」
「はい?」
 他の者が誰も言い出さないので、仕方なくボリスは進み出た。
「ペンキを、被っています。洗い落とした方が良いでしょう」
 缶は子供をかばったナナミの頭に直撃し、茶の髪に容赦なく降り注いでいた。白の塗料だったので、一時的に白髪(はくはつ)のようになっている。
「ナナミちゃん、大丈夫かい!?」
「あ、大丈夫です! お仕事の邪魔しちゃってごめんなさーい!!」
 梯子の上から職人の心配そうな声が降ってくる。彼に詫びたナナミは、子供達に新しい塗料を取ってくるよう言いつけた。
 走っていく子供達を見ながら職人が降りてきて、ナナミの有様をまじまじと観察する。
「この塗料、落ちにくいんだよなぁ。一人じゃ洗い切れんかもしれん」
「え、そうなんですか?」
 べたべたする髪が気持ち悪いのか、ナナミは簡単に塗料を落としたが、それが悪かったのか益々塗料が髪の中に染み込み、その様を見たボリスは顔を顰めた。
「ガキ共はここの片付けさせるから、後は俺が面倒みるよ。乾き切る前に洗ってきた方が良いだろう」
「それは悪いです。そもそも私がこんなところで遊ばせてたのがいけないんだし……」
「ここじゃなきゃ、どこで遊ぶんだい。どこもかしこも同じような事やってんだ。ナナミちゃんのせいじゃないって」
 慰めてくれる男に、ナナミはありがとう、と笑う。
「ナナミさん、私が髪を洗うのを手伝いますよ」
 申し出たのは、ただの思いつき。気紛れだった。
 美しい大地の色をした絹糸が、無粋な白に塗り潰されているのを見るのは忍びなかったからかもしれない。
「えぇ!? そ、そんなご迷惑かけられません! 大丈夫。私一人で出来ますよ!!」
「ですが、先ほどこの方が言っていたでしょう? 一人では洗い切れない、と」
「ナナミちゃん、素直に甘えさせてもらいな。この塗料と付き合っている俺が言うんだ。間違いない」
「う〜……」
「子供達も心配するでしょうね」
 ボリスの言葉が、最後の一押しとなった。


 とりあえず塗料(まみ)れの服を着替えたナナミは、軍主の部屋と言う事で申し訳程度に備え付けてある洗面所に用意された椅子に座った。
 肩には大きめのタオルを巻き、頭を下げる。
「失礼」
 ボリスは礼儀正しく一言断り、手袋を取った手でナナミの髪に水を注ぐ。湯はもったいないとナナミ自身が言った為、冷たい水だった。
 水が思ったよりも冷たかったのか、ナナミの身体が一瞬震える。
 じかに触る髪は、少し痛んでいるように思えた。
 陽の下――しかも土煙と血が飛ぶ戦場に出ていれば、こうなってしまうのかもしれない。
 ボリスはそんな事を考えつつ、丁寧に髪を洗っていった。彼自身とても綺麗好きなので、丹念に塗料を取り去っていく。
「気持ち良ー……」
 無意識だろうか。少女は気の抜け切った呟きを漏らした。
 人によるだろうが、髪を梳かれたり、頭を撫でられたりするのが気持ち良いと感じる者はいる。ナナミもそうなのだろう。
 先程よりも少し下に落ちた頭と、それに繋がる白いうなじが見えた。

 その瞬間湧き上がった感情を、何と呼ぶのだろう。

 この上なく無防備に晒される首――呼吸器官のある生き物なら、確実に急所な部分。ボリスも本能と知識でそれを知っている。
 手はかろうじて止まらなかった。
 それでも、ナナミもボリスの異変に気付いただろう。自分でも分かるぐらい、彼は言いようのない空気を放っており、彼女はそういったものに聡い優秀な戦士だから。
 噛み千切ってしまいたい――そんな衝動が身体の奥底から沸き起こる。
 父が死に、この城にやってきたその日、彼女とは話した。それで済ませるはずだった。だが、自分で思っていたよりも感情は昇華出来ていなかったようだ。
 自分の殺気を、彼女は感じ取っているに違いない。分かっていて何も言わず、行動しないナナミに、ボリスは口許を歪めた。
 そうしてとうとう止まったボリスの手に、ナナミは顔は上げなかったが口を開いた。
「……その牙を向けるのは、私に」
 まるで咎を受ける覚悟を抱いた罪人の如く、彼女は言う。
「あの子ではなく、私に」
 抑揚の無いそれからは、少女が何を抱いているのか窺うのは難しかった。
 今ここでボリスが剣を手にとっても、彼女は抵抗もせずに死んでいくに違いない。血塗れで事切れたナナミの姿の想像は、とても甘美な誘惑だった。
 ボリスは、ゆっくりと口をナナミの首に近づけていく。少女も気配で察しているだろうが、やはり何の行動も取らなかった。
 簡単につかめてしまう細い首に、人間に比べると大きなコボルトの口が噛み付いた。
 刹那、びくりと少女の身体が跳ね、恥じるように動かなくなる。さあっと立っていく鳥肌に、ひどく気分が良くなる。
「っ……は…………っ」
 どんどん青くなっていくナナミの顔に、ボリスは心底おかしそうに瞳を眇める。
 彼女は戦の最前線に出る精鋭だ。死なない為に、敵の気配や殺気を感じ取るのに長けている。他者に自分の命を文字通り握られているのは、戦士としての本能や神経にさぞかし負担をかけているだろう。
 今までは立てていなかった牙を、柔らかな首に少しだけ立てる。血は出ない強さだが、自分の牙は確かに彼女の体内に入っていた。
「……っ……」
 唇を噛み締め、震えながら己を律する少女の姿は、ボリスを最高に興奮させる。
 人形のように青白くなったナナミを見て、美麗なコボルトはようやく彼女を解放した。
「ボリス……さん?」
 濡れた髪から水が滴り落ちるのも構わず、首を押さえたナナミが男を見上げた。
「甘く見ないで頂きたい」
 静かに、彼は言った。
 そこにいるのはもう、髪を洗ってくれる、と言った優しげな青年だった。
「私は、軍を預かる立場に居ます。
 優秀な兵士を、自らの手で無くすという愚を軽々と行うはずがないでしょう」
 くっと口の端を吊り上げ、ボリスは誰も見た事の無いような笑みを浮かべる。
 有無を言わさずナナミの頭を先程のように下げさせ、塗料を取る作業を再開したボリスは少女小さな耳許で囁いた。
「あなたが死ぬのは、許しません」
 頭を掴み、逃亡も、耳を塞ぐ事も許さず、若きコボルトの将は言葉を紡ぐ。
「あなたは、生きて……父の見られなかった世界を見なければいけないのですから」
 何も言わないナナミの赤い点が出来てしまった首を舐めたボリスは、作業が終わるまでもう口を聞かなかった。


 彼女の首を、食い千切りたいと思った。
 だが、それを受け入れる小さな娘を、守りたいとも思ったのだ。
 あの時、確かに。
「――――許さないと、言ったでしょう」
 一人呟いたボリスは、部屋の窓から城内を見下ろす。
 城中がぴりぴりした空気に包まれている。ハイランド攻略に必要不可欠であったロックアックス戦を勝ったというのに、人々は誰一人として浮かれてはいない。
 全ての神経は、彼女の手術が行われている医務室に集中されていた。
「あなたは、父の見られなかった世界を見るのが責です」
 時折身を襲った、己全てを焦がすような憎しみ。同じぐらいの強さで沸き起こる、温かな感情。
 それが何であるのか、ボリスは知っている。
 知っていて、今まで知らない振りをしてきた。
「―――どうか…………」
 ボリスは拳を握り締め、呻きに近い祈りの言葉を呟く。

 憎しみと表裏一体で存在する感情を、愛という。
 父の死を呼んだ娘の生存を、彼は心から願った――――。







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