似て非なる者達。


 英雄の守り人


 昔の仲間にしつこく言われて、トランの英雄は従者を伴って同盟軍本拠地に訪れた。
 気の良い昔馴染み達は喜んで二人を迎え、今の仲間達を巻き込んで大騒ぎをし、エンリとグレミオは予定外に一泊するはめになったのだが、二人共久しぶりにとても気分良く帰路に着いた。
「すごい霧ですね」
「デュナン湖は霧が発生しやすいと聞いてはいたけど、こんなにひどいとは……」
 昨日からあまり天候が良くなかったが、今日はミルクを思わせるほど濃密な霧がデュナン湖周辺に広がっている。
 全てを柔らかく包む水の一つの形は、エンリにデュナン湖の霧の事を教えた少女の事を思い出させる。
 背後に湖、他の三方は平地という、軍の砦にしてはやや好ましくない立地条件の同盟軍本拠地は、気象条件次第では数メートル先が見えなくなる事がしばしばあるらしい霧は厄介なもので、そういった日は、城の警備を務める−中でも見張りを担当する―人間は敵などの侵入を許してしまう危険性が高くなるので少しピリピリするのだと、こういった天候がとても好きだという彼女は苦笑しながら言った。
「きっと散歩でもしてるんだろうな」
「ナナミさんですか?」
 思っていた事がいつの間にか口に出ていたらしい。
 それ事態もやや驚きだが、思い描いていた相手を言い当てられた事の方が驚いた。
 エンリが質問の意をこめた視線を遣ると、彼を育てたといっても過言ではない男は柔らかに笑う。今では英雄と呼ばれる彼に対してそんな風に笑いかけるのは、この世でただ一人、グレミオだけだった。
「坊ちゃんがそんな顔をするのは、ナナミさんの前とナナミさんに関する事だけですから」
「……僕はそんなに分かりやすい顔をしているかい?」
「他の人は気付きませんよ」
 言外に、自分は分かるが、と述べる彼は意外と人が悪い。他人が気付かなくても、彼には気付かれているのは事実なのだから。
 やや憮然とした主の表情を見て取ったグレミオは笑むように目を眇め、先へ行くよう促す。育ての親たる男に敵おうなどとは、さすがに無理な事なのかもしれないと素直に歩き出したエンリは今更ながらに思った。
「珍しいですね、坊ちゃんがそんなに気にかけるのは」
 斜め後ろから平淡を装った声がかけられる。色々なものを隠して潜ませたそれに、エンリは苦笑した。
 あの戦争を終結せしめた少年は、従者を伴って故国を出奔してから誰一人として己に近付けようとはしなかった。その右手に戴いた紋章は、近しき者の魂を喰う―――それを恐れて、彼は一度喰われたが故にもう喰われる心配のないグレミオだけしか側に置かない。
 そんな彼が、誰かに興味を……軍を率いていた時にすっかり身につけたポーカーフェイスをほんの少しでも打ち崩すぐらいには感情を動かされる存在に、グレミオは驚くと同時に喜んでいた。

 グレミオの意図する事を正確に察して、振り返ったエンリは笑う。
 その笑みは、グレミオの知らない冷たさと妖しさに彩られたもので、彼が失ったものを窺わせる痛さもあった。
「彼女は、真の紋章に打ち勝つかもしれない人間だから」
 寒気を感じさせるほどの微笑を貼り付けたまま、かつて猛者を鼓舞した声音が絶対零度の冷たさで言葉を紡ぐ。
 ――可愛い息子のように愛する主人が、時折こんな空気を纏う瞬間がある。
 それは風を司る魔術師の少年や、義父の名でその地位にある軍主の少年、星を見て未来を知る女性などが同じように持つ、真の紋章持ちだけが有する特有のもの。 絶大なる力と引き換えに与えられる業と不死が、彼等に人と異なる雰囲気をもたらしてしまうのだろうか。
「それはまた……」
 恐ろしく、勇気のある人間もいたものだ、とグレミオは感心して息をつく。
 客として訪れた同盟軍本拠地で、軍主の隣に立って歓迎してくれた小さな少女。
 なぜか料理の腕を振るう羽目になってしまい、恐縮した様子で手伝ってくれた素直で素朴な娘。どこにでもいそうな村娘のようだが、侮ると恐い目にあうだろう。
「この戦いの行方は、彼女の肩に掛かっているかもね」
 どこか面白そうに、すっかり性格の悪くなってしまった主人が笑む。
 言葉通りの事を思っていないのは明白だった。
 だからグレミオは、やれやれと溜息をついて彼が望む言葉を吐き出す。
「そんなはずがないでしょう。たった一人の人間が戦争を終わらせる事など出来ません」
 望み通りの言葉を受け取って、エンリは甘えた笑顔になる。彼が望んだのはそこまでだったが、グレミオは恐らく主人も予想していないだろう事を口にした。
「私は紋章の事など良く分かりませんが、一つだけ言える事があります」
 己の意を的確に読み取り、それに添ってくれる従者の珍しい言動に、エンリは年相応の顔で彼を見上げた。
「あの子は、私と同じ道を行きますよ」
 いつもと変わらぬ穏やかな顔なのに、なぜかエンリはぞっとした。背筋に走る悪寒に耐えながら、驚きと共にグレミオを凝視する。
「そしてあの子は、その道を選ぶ事を躊躇わない」
 エンリを守る為に一度死んだ身の彼が、真の紋章保持者ですら出来ない瞳で語る。
 グレミオは時々こんな眼をする。
 奇跡の生還を果たし、人の営みから外れてから……。
「何故、分かる?」
「彼女が私と違うもので、同じだからですかねぇ」
 全く意味不明な事を呟き、グレミオはふにゃりと笑う。
 茶化しても誤魔化してもいない彼が腹立たしかった。
 一つ息を吐いて感情的になった自分を静めたエンリは、今まで振り返る事のなかった同盟軍の城を見る。霧で覆われてはいたものの、その巨体は完全には隠れていない。
 霧と混じって煉瓦の濃茶の色がやや淡くなり、その色は今話していた彼女を彷彿とさせた。
「……そうか、彼女はいなくなってしまうかもしれないのか」
 グレミオと同じ道という事は、そういう事。
 彼女が、誰かを庇って命を落とす―――そういう事。
 それを阻む事は出来ないだろうと、エンリは途方も無い無力感を味わいながら理解した。
 戦闘に不向きな優しいこの男が、人の事を勝手に決め付けるという事はほとんどない。
 彼がここまではっきりと、エンリですら怯えさせる瞳で断定するという事は、レックナートの星見以上に確定的な未来なのだと何故か分かってしまう。
 一つの愛すべき命が失われるかもしれないという事がエンリの心に影を落としたが、彼は湧きあがる別の思いで笑う事が出来た。
「――グレミオ、なぜか僕は彼女が紋章に勝つ気がしてならないよ」
 なぜかと訊かれたら、きっと分からない。
 分からないのに、しかも彼女が死ぬかもしれないという可能性―ほぼ100パーセントに近いのだが―は重々承知したのに、エンリは少女の勝利を見た。
「その事について私は分かりませんが」
 主人の言葉を否定はせず、ただグレミオはトランの英雄すら怯えさせる瞳で遠くを見、そしていつもの穏やかな表情で振り返る。
「坊ちゃんの見たものが、本当になると良いですね」
 夜色の瞳に太陽の光を宿す少女。
 小さなその背を、人々に焼き付ける強くて弱い彼女。
 愛すべき、愚かな娘。
「そう……願います」
 かつて彼女と同じ道を行ったという、老いも死もなくした男は目を閉じた。

 ―――しばしの時を経てグレミオとエンリはナナミ死亡の報を受けたが、従者は主が自分といる場で自分の右手を見て幸せそうに苦笑したので、自分も彼と同じような……幾分の納得が追加された複雑な笑みを浮かべた。




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