それは死の色。
 禍々しい、白。

仮初(かりそめ)


 戦乱の嵐が吹き荒れるこの世界で、死は日常的なものだった。
 戦の急先鋒、同盟軍なら尚更に。
 ロックアックス攻防戦。ハイランドを同盟軍の地より追い出す重要な戦に、同盟軍は多くの死者を出しながらも勝利を勝ち取り、敵国の滅亡はもはや目前と誰もが分かった。
 しかし、本来ならば歓喜に溢れているはずの城は、悲しみに沈んでいる。

 違う世界へと旅立った人々の中にナナミという少女がいた。

 ――たった、それだけで。
 城の人々は、忌まわしい事だが死には慣れているはずだった。それだけ、多くの人々と死に別れ過ぎていた。
 そんな、悲しくも強く逞しい同盟軍の担い手達が、皆涙している。


 負傷兵達の往診で医務室を空けていたホウアンは、人々の嘆きを目の当たりにして帰室した。その顔は、疲労のせいか心労のせいかやや青白い。
すっかり中身の無くなった鞄を彼らしくなく乱暴に置き捨て、厳重にカーテンで隠された一角に迷わず進んでいく。カーテンに手をかける一瞬前、周囲を確認するだけの冷静さは顕在らしかった。
 白いカーテン。白いシーツとベッド。充満するのは消毒液と薬の匂い。
 隔離された小さな空間で横たわるは、死んだはずの少女。
「起きていたのですか……」
 話す事も辛いのだろう。彼女はほんのかすかに顎を引いて肯定した。
「寝ていなさい。あなたの今すべき事は、その身の回復です」
 医師としてのホウアンの言葉に、ナナミは何かを言いたそうな瞳で返す。それを汲み取った彼は、ベッド脇の椅子を引き寄せて彼女の側に座った。
 息が触れ合いそうに近い距離。彼女の吐息が小さ過ぎるのが身体で感じられて、ホウアンの胸が痛くなる。
 自分が確かに助けたはずなのに、あまりに生命の力が感じられなくて、生きているのですか、と問いかけたくなった。
 血の気の無い唇が動く。
 吐き出されるのは息ばかりで、音はあまりに小さい。ホウアンは、身を乗り出して耳を寄せた。
「巻き込んで……しまって、ごめん、なさい」
 苦しげに紡がれた言葉に、ホウアンは絶句した。
 死の淵から生還したばかりの少女は、そんな状態にあって尚、人の心配をしている。
「そんな事は良いんですよ」
 答える声は、震えていなかっただろうか。
「……私が、眠ったままでも、きっと、こうなっただろうけど……私は、自分の意思で、選び……たかった」
 薬の作用で眠気を感じている少女が、半分ほど瞳を閉じて途切れ途切れで語る言葉は、ホウアンの予想だにしなかった内容だった。
「ナナミ……?」
「シュウさんは……私が言わなくても、きっと、こうしたね……分かるよ」
 顔が笑ったかのように歪んだ。
 そこまで、そこまでこの娘は理解しているのか。
「あのね、これは、私が選んだ事」
 耳を近づけるホウアンがやっと聞き取れるぐらいの声量。
 それなのに、言葉は凛と響いた。
「私が、決めた事」
 死神の誘いを受けながら、それでも失われない強さ。
 前ほど眩しくないのは、彼女の持つ生命力が違うからだろうか。
「シュウさんが、決めたわけでも……先生がしたわけでも、ない」
「ナナミ……」
 彼女は分かっているのだ。
 大人達の計略を。戦いを終わらせる為という、大義名分の下で行われる事を。
 その上で、言う。
 行う者達の心が痛まないように。
「……私が、リオウの為にと、言いながら……自分の為にする事だよ」
 傷が痛むのか、それとも心が痛むのか、ナナミが眉根を寄せる。
 別世界を垣間見たであろう少女は、生者の誰も到達出来ない境地にいるように見えた。
「…………気付いて……っ、リオウ……ジョウイ……」
 今まで、この城では決して口にしなかった名前を最後に、少女は気絶するように意識を落とした。

 ――彼女は、己の死で何を伝えようというのか。
 どうにか得られた生を消せと、どんな覚悟を持って言ったのか。
 彼の少年達に、何に気付けと。
 あまりにも静かな呼吸は、空気さえも震わせない。小さ過ぎるそれは、彼女を助けたはずのホウアンでさえ恐ろしい。
 いつもは笑みを浮かべて、ほんのり赤かった顔に血の気は無い。
 いのち生命を救う医師は、その頬の白さを良く知っていた。
 雲の白とは違う、雪の白とは違う、石の白とは違う、この地上にある全ての白とは違う、生者には持ち得ぬシロ。
 たまらず、ホウアンは彼女の手を握った。
 ひんやりと冷たい体温。どれほどの怪我をしてここを訪れても、温かかった少女なのに。
 氷のように冷ややかな指先に、泣きたくなった。
 訓練を重ね、戦いに出る者だった少女の手は、年頃の娘のものにしては柔らかくない。だが、どんな貴婦人の白魚のようなそれよりも遥かに愛しい。
 ぞっとするほど冷たい指先に、温もりを分けるように口付ける。
 ―――と。
「ナナミ……?」
 微かに。
 本当に微かにだが、ナナミの手がぴくんと動いた。
 生きている事を示すように。
「……………………良か、った…………ッ……」
 たったそれだけの事が、これ以上無いほど嬉しい。  心の底から、身体の奥から、あまりに純粋に、安堵の気持ちがこみ上げていた。

 しばらくナナミの手を握ったまま動かなかったホウアンは、やがて全てを吹っ切るかのように立ち上がる。
 布団から出ていた少女の両腕を中に入れてやり、最後に触れるだけの口付けを落とした。
「―――あなたが、あなたの死に何の意味を見出したのか、生きて、生きて……教えてください」
 愛しげに少女の髪を撫ぜた男は、ゆっくりと瞳を閉じて同じ速度で開く。
 そこにいるのは、世界で最高位の腕を持つ医師だった。
「決して死なせません。私も、答えを聞くまで生き続けましょう」

 慟哭が聞こえる。
 城中を覆う、悲しみの声が。嘆きの叫びが。怒りの罵声が。
 争乱の中でも笑顔を絶やさず、義弟と友達をただ純粋に想い、前だけを見据えていた、愚かしいほどに我武者羅な娘を失った悲鳴が。

 仲間達に詫びながら、彼は己のすべき事を果たす為に動き出した。





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