珍しく訪れた三階の庭園。
 光溢れるその場所に、少女はいた。

未来絵図



 赤ん坊の楽しげな声がする。
 弾けるような笑い声に、赤ん坊をあやしていた少女も嬉しそうに顔を綻ばせた。
「……ナナミ?」
 茶色い髪と瞳の赤ん坊。その色はナナミとても良く似ていて、一見すると若い母親と子供に見える。
 本来こうあるのが自然な少女の姿は、フリックを硬直させるには充分だった。
 思い出すのは、戦場でのナナミ。
 血の紅を、泥の黒を化粧とし、髪も顔も服もどろどろにして戦う姿。
 固まっていたフリックの視線に気付いたのか、ナナミが振り返って顔を輝かせる。
「どうしたの、フリックさん」
 陽だまりの中にある、その笑顔。
 赤ん坊も似たような無邪気な笑みをフリックに向けていて、二つの笑顔はなんだかとても眩しく映ってしまい、彼は手袋に覆われた手で瞳を隠す。
 彼女が戦争に巻き込まれたりしなければ、手にしていたかもしれない幸福。
 自分達大人が戦争に巻き込んだりしなければ、存在していたかもしれない光景。
 戦争を生業とする者には、眩し過ぎた。
「……フリックさん?」
 気遣うような声が、すぐ側から聞こえる。
 一つ深呼吸をして目隠しを外せば、ナナミが上目遣いで顔を覗き込んできていた。
「ちょっと陽の光が眩しくてな。
 それより、どうしたんだ、その赤ん坊」
「……この子のお母さんの具合が悪くて、お父さんは運悪く出張中なんだって。お母さん達も忙しいし、今日は特に予定のない私に預けられたの」
 この城には多くの人々がいて、互いを助け合って生活している。
 少し年長の子供は年下の子供の遊び相手になるし、兵士達も手が空けば子供の面倒を見る。戦闘要員でも召集されない限りは日常生活の担い手になる。
 それが当たり前のこの城で、ナナミの現状はなんら珍しくなかった。

 赤ん坊はとても人懐こく、おっかなびっくり子供の相手をするフリックにも抱っこをせがむように手を伸ばす。
「なぁに? フリックさんのとこに行きたいの?」
 ナナミが面白そうに訊ね、赤ん坊は意味不明の言葉を返す。
「そっかそっか」
 にわか母親にその言葉の意味が分かるのかフリックにははなはだ不明であったが、少女はやけに確信を持って頷く。そして、男の腕に赤ん坊を差し出した。
「は?」
 いささか間抜けな声と共に、フリックは赤ん坊を反射的に赤ん坊を受け取っていた。
「おいっ、ナナミ!」
 荒げてしまった声に赤ん坊がびっくりして、その事に気付いた戦士は慌てて赤ん坊を抱き直す。ぎこちなくも笑ってやれば、子供はあっさりと笑顔に戻った。
 横から、全く悪びれていないナナミが赤ん坊に声をかける。言おうとしていた文句は、少女と赤ん坊の無垢な笑顔によって脳内で消えていった。
 赤ん坊を抱くなどフリックの修得している技術項目にはなかったが、それでも頑張って抱き続ける。
 二人の笑顔に、青雷の二つ名を持つ傭兵も顔が綻んだ。
「なんだか家族みたいですね」
「ほんとほんと。お似合いだよ〜」
 和やかな三人の間に、同じく穏やかな男女の声が聞こえてくる。
「ヒックスさん、テンガちゃん」
 フリックの同郷である戦士と魔法使いのカップルであった。
 庭園にデートにでも来たのか、珍しく二人共恋人同士らしい甘い空気を振りまいていた。
「家族って……俺達がか?」
「勿論! そのまま家族ですって言われたら絶対信じるよ」
 赤ん坊はやはり人懐こく、顔を覗き込むヒックスとテンガアールにも興味津々の顔で見詰めている。この城で生まれ育てば、こうなるかもしれない。
「お似合いでしたよ」
 テンガアールとヒックスに太鼓判を押されたフリックとナナミはお互いの顔を見、揃って顔を赤くした。
 色の明暗は違えど顔を赤くした二人に、テンガアールは何を思ったのか、「それじゃあ、ボク達これからデートだから」と言ってヒックスを引き摺り庭園の奥に去っていった。
 その笑顔がどこかニヤニヤしていたのを、フリックは見逃さなかった。
「もう、テンガちゃんったら!」
 からかわれたと思ったのか、ナナミが可愛らしく怒って彼女等の行った先を睨みつける。
「あんな大人になっちゃ駄目よ〜?」
 フリックの腕から抱き上げた赤ん坊の頬と自分の頬をすり合わせ、ナナミは懇願するように言った。くすぐったいのか、きゃらきゃらと赤子が声を上げる。
 しばらく優しい表情で赤ん坊を見ていたナナミは、小さな身体と抱え直すと、この場から良く見える空を見た。
「ねえ、フリックさん」
 視線はそのまま、少女は静かな口調で言う。
「この子は、戦争を知らない子になれるかな」
 少女の双眸は、血と死が吹き荒れるこの世ではないどこかを見ていた。
「私は女だから、いつか子供を生むわ」
 ゆっくりと歩き出したナナミに何を感じ取ったのか、赤ん坊は静かになって、フリックは動けなくなる。
「その子が戦争を知らずに生きてくれれば良いと思う」
 全ての母が、母になる女達が抱く願い。
 子供に分類されてもおかしくはない年頃の娘が、戦争の悲惨さをその身で知った上での呟きはあまりに重い。
「その子に、世界はこんなにも素晴らしいものなんだって……気兼ねなく、胸を張って教えられる、そんな時代であれば良い」
 生命を紡ぐ身で、生命を奪う身で、ナナミは希望と祈りを込めて語っていた。
 再び赤ん坊に頬を寄せた彼女は、切なそうに眉を寄せて小さな温もりを確かめる。
「リオウかジョウイが、そんな世界にしてくれるのかな」
 ナナミにとって最愛の弟と幼馴染の名は、彼女の顔を悲痛なものにする。
 この少女がその問題を割り切れるようになる事は、恐らくないだろう。
「ナナミ……」
 先程は本当に母親のように頼もしく見えたその肩は、今では常よりも頼りなく見えた。
「でもね、フリックさん」
 俯いたナナミは、小さく続ける。
「あの子達が死んだ上で成り立つ平和の世界なら」
 深い一息。

「私はいらないと思うんだよ」





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