涙が出るくらい、優しい光景。

 昼下がりの図書館で



 あまり知られていない事だが、軍主の義姉(あね)はとても良く本を読む。  字を書くのは不得手のようだが、読む方には驚くほど長けている。難しい単語や言語さえ読み解くのである。
「今日は古代神聖語ですか」
 ナナミの本好きを知る数少ない人物であるカーンは、少女が手を伸ばそうとして届かない本を取って渡しながら小さな声で言った。
「ありがとうございます。カーンさん」
 にっこり笑って礼を言いつつ、ナナミは嬉しそうに本を受け取る。
 遠征や任務が無い限り図書館を利用する事の多いカーンが、暇を見つけては本を探しに来るナナミと親しくなるのは自然の成り行きだった。
「しかし、本当に良く知っていますね」
 ナナミの手にある古代神聖語の本と古語辞典を見比べて、これまでに彼女が辞書片手ととはいえ読破してきた本の数々を知るカーンは、感嘆の賛辞を送る。
「じいちゃん様々です。私、これが普通なんだと思ってた」
 少しくすぐったそうに笑いながら、ナナミは言う。
 彼女は学校に行く子供のような教養はないのだが、養父が得意だった分野はそのまま受け継いでいるらしい。
 武術しかり、軍事的技術や知識しかり、だ。
 幾多の言語への知識は、果たして趣味か否か。ナナミやリオウの話から描かれていく名将は、カーンの知的欲求をいたく刺激する。
「カーンさんこそ、いっぱい本を読んでますよね。すごい物知りだし」
「私はまあ、使命…仕事上必要な事でしたから。今は本当に好きなものが読めるので幸せだと思いますよ」
 二つの本音を混ぜて述べれば、少女はやや困った顔でカーンを見上げた。そんな優しい彼女に大人の笑顔で応えて、同時に促す。
 こうして会って、ナナミに時間があるならば、近くの席に座って本を読むのが常だった。
 今日はどうやら時間があるらしいナナミは、頷いて歩き出す。
 ナナミが途中で、勇敢にも紋章術の教えを請うているメイザースと少々話したりして寄り道しつつ、二人はあまり人の来ない一角に進んだ。
 大きな窓の下にあるソファ。秋の終わりかけた今の時期、午後から差し込んでくる光が温かい、この季節限定の特等席だ。
 そういった席を良く知っている図書館常連組に選択ミスは無く、今日も柔らかな日差しが注いでいる。
 ナナミが太陽の温もりを感じるソファに嬉しそうに座ると、カーンもゆっくりとした動作で腰を落ち着けた。
 二人の間に言葉は無く、それぞれ自分の持っている本を読み始める。
 時折ページの捲る音がする、静かな時間が流れ始めた。

 城主リオウは、仕事の一環としての城内巡回をしている途中、資料探しも兼ねて図書館に立ち寄った。司書のエミリアが、ここ数日あまり顔をあわせていない義姉の来訪を教えてくれたので、嬉しい偶然だと喜んでその姿を探す。
 彼はさすがにおとうと義弟らしく、ナナミの行きそうなところを選んで見て回る。しっかり資料を確保しているあたりは、さすが抜け目が無い。
「ナナミ、どこ行っちゃったんだろ」
 何度目かの外れを味わったリオウは、分厚い魔法書を読んでいたメイザースを見つけた。 「メイザースさん、ナナミ見ませんでした?」  こういう時は、素直に聞いてしまうに限る。
 図書館にいる時間がとてつもなく長い彼ならば、何か知っているのではないか。
「ナナミなら、黒ずくめのバンパイアハンターと奥に歩いて行ったぞ」
「そうですか。どうもありがとうございました」
 有力な情報を提供してくれた気難しい魔法使いに礼を言い、リオウは早々と教えられた方向へ歩いていく。
 ナナミと、ナナミと一緒にいた人物の扱いが違う気がするのは見て見ぬ振りである。ちろちろと胸を焦がす炎を今は感じたく無い。そんな気力はない。
 お姉ちゃん大好きっ子である彼は、義姉に会えない日々が続いてかなり寂しかった。
 キャロの町にいた時は思春期特有の反抗心や照れから、拗ねたり寂しがったりするナナミに嫌われないかとどきどきしながら距離を取っていたのだけれど、そんな努力をする元気をここでは仕事ですり減らされる。
 元気を補充するのにどうすれば良いのか、リオウは知っている。
 だから彼はこうして義姉の元に向かっているのだった。
 短かったような長かったような距離を終えて、少年はようやく奥の小さなスペースに続く本棚に辿り着く。図書館の本棚に相応しい大きな棚を曲がろうとして、彼ははっと足を止めた。
 あまり人に知られていない、図書館の奥。
 邪魔の入らぬ小さな場所に、二人はいた。
 窓から差し込む午後の日差しが、柔らかにカーンとナナミを包み込む。
 日向が似合うと称されるナナミはもちろん、上から下まで黒一色のカーンまでもが光に祝福されているかのようで。
 そんな中で、ナナミはカーンの膝を枕に眠っており、カーンはそんな少女の頭を時折撫でては本を読んでいた。
 いつもなら、きっと「何してるんだ!!」と走って割って入っただろう。けれどリオウは、義姉を取られたような一抹の寂しさを抱きながら、動こうとはしなかった。
 ――美しかったのだ。
 人が人を大切にしているところは、何故こうも綺麗なのだろう。
 太陽のものだけではない光が、不可視の光が見える。
 優しくて、優しくて、優しい……カーンの瞳に宿る色が、そのまま空気を色づけているような、そんな空間。
 城の賑やかなそれとは違う、ふと見かける恋人たちのそれとも違う、恐らくは、カーンとナナミだけが作り出せるのであろう世界。
 見えない壁がリオウの行く手を遮り、少年が踵を返そうとしたその瞬間、ナナミがもぞもぞと身動きして、言った。
「ん……リオウ…………」
 その一言にリオウの足が止まり、カーンはほんの少しだけ苦味を混ぜた微笑を浮かべる。
 少年が振り返った先に、壁は―――ない。
「ナナミ? カーンさん?」
「おや、これは、リオウ殿」
 彼は驚く風でもなく、さり気無さを装って近付く軍主に目を眇める。
 もしかしたら、リオウがいる事に気付いていたのかもしれない。年の功なのかな、と悔しい心地もあって若い少年は思った。
 カーンは優しい表情でナナミの髪に指を入れ、そっと梳く。
「良く眠っていますよ」
「そうみたいですね……会いにきたんですけど」
「起こしますか?」
「いいです。今日の夜、早く仕事を終わらせれば部屋で会えますから」
「では、そうして下さい」
 起こしてくれ、と言ったら彼はどうするつもりだったのかとどうでもいい事を考えつつ、安らかな顔で眠る義姉を見遣る。
 寝顔は昔と全く変わっていないものだったので、リオウはなんだか安堵した。
「ナナミ、お願いしますね」
「言われずとも」
 忙しいリオウは早々と身を翻し、次に回る場所を考えながら思った。
 もし自分がナナミを起こしてくれと言ったら、きっとこの男はやんわりとだが絶対に自分を止めたに違いない。
 リオウはどうも面白くないので、何かで気を晴らそう(誰かに八つ当たりでもしよう)と決めて、図書館から去っていった。

 少年の背の向こう、少女の眠りの番人は幸せそうに優しく微笑んでいる。





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