行きなさい、生きなさい―――いきぬきなさい。
 義父(ちち)の、祈るような叫ぶような、言葉にされなかった願い。

教えという名の願い



 その日ゲンシュウは、いつもと同じように道場に向かって歩いていた。
 珍しく軍師から意見を求められて時間を取られてしまい、普段より赴く時間が遅い。
 身体や技を鍛える活気溢れる場所はゲンシュウにとって懐かしさを感じさせ、この城の中では最も馴染んでいるところである。
 もはやお決まりになった出入り口の扉を開け、中に入っていく。否、入ろうとした足を止めた。
「……っ」
 常は多くの人々が出入りして騒がしいはずの道場は、今はたった一人が利用していた。
 広い面積を使っているその人間は、稽古用の模擬刀ではなく実戦用の真剣を手に、型をなぞっている。
 それだけの動作なのに、剣を使う者だけが放つ気を感じる。
 これが、剣を扱う戦士や騎士ならばゲンシュウも驚きに歩みを止める事など無かっただろう。だが、今目の前にいるのは少女だった。
 しかも、事もあろうに城主の義姉(あね)だった。  効率の良い型は剣術としての優秀さを、無駄と隙の無さは彼女の戦士としての優秀さをありありと分からせる。
 武は舞に通ずる――そんな言葉を思い出すほど、ナナミの動きには美しさがあった。
 やがて彼女は、ふーっと静かにゆっくりと息を吐き、剣を下ろした。どうやら終わりらしい。
「入ってこないんですか、ゲンシュウさん」
「……いや」
 ゲンシュウが扉を開いた時点で察知していたのだろう。ナナミは不思議そうな顔をして無愛想な男に言葉をかける。
「お主、剣も使うのか」
「え? あ、ああ、はい」
 会話する努力をしない男の突然の質問に驚きながら、ナナミは自分の手の中にある剣を見て肯定する。
 先程の動きから見て、彼女の剣の腕は間違いなくかなりのものだ。このような小さな少女の練習の為の動きに、不覚にも剣士の血が騒ぐのを感じた。
 恐らく、本気で剣を交えれば、いかなゲンシュウといえどただでは済まない。そう分かっているからこそ、彼は戦いたくなる。武を修める者の(さが)かもしれない。
「おや? ナナミに、ゲンシュウ殿?」
 ゲンシュウが、少女への手合わせの申し入れを悩みに悩んでいるところ、渋く低い声が道場に響いた。
「ゲオルグさん!」
 ナナミはぱっと顔を明るくして、新しく入ってきた人物に近付いてく。小動物のような動きは、およそ先程の真剣な表情と結びつかない。
「道場で会うのは初めてですね、ゲオルグさん」
「俺はあんまり来ないからな。珍しく剣なんぞ持って、どうした?」
「最近、剣とか他の武器の鍛錬してないなって気が付いて。
 ここにいれば誰かと手合わせ出来るかと思ったんだけど、誰もいなかったから型なぞってたんです」
「リオウが同じ事を言っとった。で、この俺に剣の鍛錬に付き合えと言ってきたんだ」
「じゃあ、リオウも来るんですか?」
「いや、約束の時間まではまだかなりある。俺も久々にじっくり鍛えようかと思って早目に来たんだ」
「それでしたら、それがしと手合わせして頂けぬか?」
 今まで黙っていたゲンシュウが会話に入る。ナナミもゲオルグも驚く事無く、ゲンシュウを見た。
 かちあった男達の目に、鋭い光が宿っていく。
 剣を持ち、腕を高める事に喜びを感じる獣の瞳だ。
「……それもまた一興、だな」
 かくして、剣聖達は隙無く構える事と相成った。

 鋼と鋼のぶつかり合う音。
 甲高く耳障りなそれも、今のナナミには遠い事だった。
 かろうじて、彼等の繰り出す太刀筋が見える。恐らく、常人には何が起こっているのか視認出来ないだろう。凄まじく速い斬撃の応酬だ。
 二人の手にしている訓練用の模擬刀とはいえ、彼等が振るえば恐ろしい武器になるだろう。真剣での勝負も同然だった。
 世界に何人かしかいないだろう剣士の、恐怖さえ感じさせるような剣捌きに、ナナミは覚えがあった。
 ――昔、よく見ていた。
 祖父と呼ぶのが相応しい年齢の義父の、苛烈で美しい武術を。
 無心に身体を動かす姿は確かに綺麗であったのに…………とてつもなく寂しかった。
 養父の鍛えられていた背中に宿るものを、ナナミは知らない。
「あ……」
 今まで一言も漏らさなかったナナミの一言に、獣のように相対する者だけを捕らえていた二人が反応した。
 示し合わせたように剣を下ろし、揃って少女を見たのである。
「……え……?」
 自分の事など視界の端にも入れていないだろうと思っていた二人が、突然同じように自分を見てきたので、ナナミは戸惑った。
「……どうした? 何で泣いてる?」
 額にうっすらかいた汗をゲオルグが訊ねてくる。そこでナナミは、初めて自分が泣いている事に気付いた。表情に乏しいゲンシュウですら、瞳には心配そうな色が揺れている。
「やだ……私ったら、何で泣いてるんだろ。あは」
「無理して笑わぬ方が良い」
「そうだぞ、ナナミ。子供なんだから、泣きたい時は思いきり泣かんか」
 不器用に、剣聖達が自分を慰めてくれる。ちっぽけな自分が、あれほど凄い剣士達を少しでも動揺させた事が無性におかしかった。
「……あのね、二人の手合わせを見てたら、じいちゃんを思い出したんです」
 ゲオルグに頭を撫でられ、ゲンシュウにぎこちない動きで顔を拭かれるというやや情けない状態のナナミは、自身の照れを誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「じいちゃんはどんな武器でも持って凄かった。私は、あの人ほど強い人を知りません。
 私とリオウが毎日毎日教わったのは、戦場では使い物にならない道場武術じゃありませんでした。教えてくれるじいちゃんは、いつも言いました」
 ふっと、少女の心がここではないどこかを見たのが、ゲンシュウにもゲオルグにも分かった。
「『覚えておきなさい』、と」
 天を仰ぐように、ナナミは頭を上げる。
 自身の手拭いで涙を拭いていたゲンシュウの手はそのままだったので、まるで盲目の聖人が神の声を聞き取るかのようで。
「『これは、生き残るすべ術』」
 厳かに紡がれる言の葉。
 ナナミと重なって、年老いた武人の姿が見えた。
「『人を殺すのではなく、お前達が生き残る術』」
 幻だと、頭は言っていた。それが常識的な回答だろう。だが、剣士達は幻であろうと無かろうと構わなかった。
 彼は祈るように目を閉じ、ナナミと同じように天を仰ぐ。
 英雄とは、多くの人間を殺して与えられる称号。敵という人間を、数多屠った戦鬼(せんき)の事。
「『殺すのではなく、生きる為―――守る為』」
 彼は戦争の狂気を知っていた。
 子供達に与えたのは、そんな力に負けない為の術。
 そっと、ナナミがゲンシュウの手に触れた。思わずビクリと震えた男の動きに、彼女は気付いただろうが何も言わなかった。
「……私は、その言葉を一生忘れる事は無いでしょう」
 薄い布の向こうから現れたのは、義父の教えを理解しながら、それが詭弁である事を知っている者の顔。

「良い……親を持ったな」
「全く」
 己が手にする剣の意味を改めて思い知らされた男達は、わずかな恐ろしさと苦々しさを混ぜて顔を歪ませる。
 英雄の娘は、そんな二人に曖昧な笑みで返答とした。




「私の弟は"英雄"になるのかな」
 少女の呟きを、知る者はいない。





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