あの国が、嫌いだとか。
 そんな事では、決して無かった。


祖国




 酒場や賭場といった場所が賑やかになる時刻、一人の少女が部屋を抜け出し、足音無く廊下を歩いていた。
 足音はおろか気配までもが無いものだから、警備の兵は全く役に立たない。もっとも、その人物と一般兵の実力差を考えたら仕方がない事であろう。
 最精鋭に連なるナナミの、完璧に消した気配に気付けと言う方が無理なのだ。気付ける者は、ナナミと同等以上のつわもの兵だけだろう。
 見張りのいない通路に入り込んだナナミは、部屋着だけで部屋を出たのを後悔していた。秋深まる今の季節、太陽が無くなった夜はかなり涼しい。
 寝巻きにも使ってしまう部屋着では、秋の夜の廊下を歩くには薄過ぎた。
 これから取りに戻るのも面倒になったナナミは、一つ溜息をついて歩を進める。
「……まだいない、か」
 約束の場所に辿り着いたナナミは、誰もいないことを確認して小さく独りごちた。
 窓から差し込む月光は青白く廊下を照らし、ナナミを淡い色に染める。真珠のような色に、少女はひどく冷めた顔をした。
 壁に背を預け、目を閉じる。視覚を遮断する事で鋭敏化する感覚は、良く知った気配が近付いてくる事をしっかりと捉えている。
 早過ぎず遅過ぎない彼の歩みは、ナナミが数えて出してきっちり30ですぐ側にやってきた。
「風邪を引きますよ」
 少女の格好を見た青年は、苦笑しながら言った。
「うん。失敗しちゃった」
 幼いとはいえ、同盟軍の一角を担う身。身体一つが資本であるのだから、ナナミの短慮な行動は誉められるものではない。
 少しはいけない事だと認識しているらしい彼女に、クラウスはもう一度苦笑する。
「ですが、丁度良かった」
「え?」
 意味の分からないナナミを余所に、彼は手にしていた包みを破り、中に入っていたものを取り出した。
 夜の闇が支配する空間にふわりと広がる、瑠璃紺と呼ぶに相応しい深い紫味の青。深い海のような色にナナミは目を奪われ、それを美しく操るクラウスに見惚れる。
「どうぞ」
 言いながら、クラウスはナナミの肩にショールをかけ、少女の髪の分け目に唇を落とす。
 男のした事に、彼女は全く動揺しなかった。
「これ……私に?」
「ええ。あの国の品ですよ」
「良く手に入ったね」
 あの国とは、クラウスとナナミの故郷である国の事だ。
 この都市同盟とは敵国同士。当然ながら物資の流通は無いと言っていい。ごくたまに、流れの商人が持ってくるのが手に入るぐらいである。
 驚いているナナミに、クラウスは底知れぬ笑みを見せて返答とした。
「でも、高そう」
 上半身をすっぽりと覆う大きめなショールに、寒がっていた身体が正直に満足している事を伝えてくるのだが、心地良い肌触りは元貧乏人のナナミには馴染みのものではない。
「絹でこそないですが、極上品ですから」
 隠すよりも教えた方が良いと判断したのか、あの鬼軍師の補佐兼部下を出来る副軍師がさらりと答える。
「そんなに高いものもらえないよ」
「もらって下さい」
「もらえない」
「もらって下さい」
「……何で?」
 堂々巡りになると判断したナナミは、理由を聞いてみる事にした。
 見上げた先にあるのは、青年の寂しそうな微笑。
「あなたの為に手に入れたものですから」
 良家の子息然とした外見に見合い、爽やかにクラウスは述べる。並の女性ならばそれだけで頷いただろうが、ナナミは違った。
「本当の理由は?」
 生温かな視線で、少女が問う。
 訊ねられた男は、先程までの爽やかさなど投げ捨てたらしい、歪んだ笑みを浮かべた。

「このショールを見る度、あなたはあの国を思い出すでしょう?」

 瑠璃より尚深い色の布の端を持ち上げ、愛しげに口付けたクラウスは、細めた瞳でナナミを見る。

 ――あの国を。
 自分達が捨てた、あの国を。
 捨てざるを得なかった、あの愛しい国を。

「悪趣味」
 毒を吐きながらも、ナナミはクラウスの行動を止めはしない。
 二人が夜に密会しているのは、彼の国を思い出したいが為のものだったから。

 ナナミがゆったりと肩にかけたショールに、クラウスは匂いを嗅ぐように鼻を寄せる。
「あの国の匂いはする?」
「いいえ。長い旅を経てここにきましたからね」
 密着しそうに近いお互いにしか聞こえないような、小さな囁き。
 誰かが見れば恋人同士かと錯覚したかもしれない仲睦まじさだが、良く見れば色気などは欠片も無い、子供のじゃれあいといった感が強い。
「時々ね、キャロの風を感じたいと思うの」
 ショールを頬につけながら、ナナミは懐かしそうに双眸を細める。
 ナナミは自分の生まれた国を知らないが、それでもハイランドは育った国だった。
 王家の避暑地にもなっており、風光明媚と謳われる田舎町は、そう言われるだけあって自然が美しかった。吹き渡る風は涼やかで、全身を吹き抜けていくような感覚は忘れない。
 暮らしていた時には、好きだとか思った事は無かった。
「当たり前に側にあるものだったから、有り難味なんか感じなかったんだね」
 失ってから初めて、失ったものの大切さが分かる事は多い。
 その事を、ナナミは国を出て痛感した。
「私は、あの国が嫌いじゃないよ」
 ナナミの言葉に、クラウスは切なそうに眉を寄せる。
「好き、とは言わないんですね」
「うん……」
 好きだと言い切るほど、あの国に熱意はない。
 ただ。
 ただ時折、狂おしいほどに懐かしくなるのだ。
 決して良い事ばかりではなかった、優しい事など少なかった、あの地が。
 広いがボロだった道場。冬は寒さのこたえた隙間の多い家。涙を流す時に登った大樹。風になりたいと願った丘。
 全てを、鮮明に覚えている。
「……帰りたい」
 帰りたい、かえりたい、カエリタイ。
 どこへ、と聞かれたら答えに詰まり、あやふやな気持ちであの獅子の国の名を出すのだろう。
 溢れる衝動を押さえ切れず、そういう時は彼を探す。
 真実あの国を知っている、ナナミの求めるものを知っている同郷者を。
 クラウスもまた同じようなものを感じる時があるらしい。そんな時、彼はナナミを探す。
 密やかな逢瀬は、郷愁からくる馴れ合いだ。

 同じ国を故郷に持ち、彼の国に全く違う思いを抱く二人は、互いに触れないギリギリの位置を保って相手に接する。
 ナナミは目を閉じ、故国の空と旗を思い出させる色のショールで口許を隠して言った。
「次にあの国に帰れた時、ハイランドという国はあるかな」
「ない、でしょうね」
 先を見るのを仕事とする青年は、ひどく穏やかに、ひどく辛そうに、来るべき未来――確実であろう未来を語る。
「じゃあ、私達がこの先踏む大地はもう、あの国じゃないんだね」
 かつてと同じ場所であっても、かつてと同じ風景であっても。
 もうそこは、生まれ育った故郷ではない。
「…………悲しいね」
 目を開いたナナミは、ぽつりと漏らす。
 抑揚が無い一言は、言葉のままの意味を持って消えていった。
「………………寂しいね」
 やたらと石の廊下に響いては散っていく音がクラウスの背を震わせ、たまらなくさせる。
 自分が贈った肩掛けを見ながら、ハイランド出身の軍師はきつく目を閉じた。

 閉じた瞳に浮かぶのは、愛しい祖国。
「あの国が……後に書かれる歴史で、「悪しき国」と呼ばれないよう……切に願います」
「うん……本当に、そうだね」

 得たもの。
 捨て切れぬ想い。
 たった一つの、故郷。

 滅びの行く末を見ながらもその国を想う事を、矛盾し、愚かだと知りながら、彼等は白い獅子の国を瞼に見る。












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