微かな歌声が耳朶を打つ。
 まるで誘っているかのようなそれに、抗う事無く歩を進めた。

 
同盟軍のセイレーン


 夜間の屋上利用は禁止されており、見張りの兵士も存在する。だがペシュメルガにはあまり関係のない事だった。我関せずでテラスに出た彼は、音源を捜して頭を巡らし、それ(・・)はすぐに見つかった。
 涼しげで柔らかな夜風に、淡い茶色の絹糸が揺れる。
 見た事のある少女だ。
 記憶の糸を手繰り寄せて辿れば、ようやく誰かが判明する。
 軍主の義姉(あね)だ。
 確か名前は…………。
「………………ナナ、ミ?」
 ぼんやりとだが、ようやく思い出させた名前に、手摺に腰掛けた少女は振り返った。
 眼前に広がる闇と同じ色の瞳が、真っ直ぐにペシュメルガを見詰める。仲間にならないかと軍主に誘われた時一度しか会った事はないが、その時も少女は人を真っ直ぐ見ていた。
「ペシュメルガさん」
 あまり人付き合いというものをしないペシュメルガでも、城までの道中を共にした人間の人となりは見ているわけで。
 記憶にある"ナナミ"と、今目の前にいるナナミの違いぐらいは気付く。
 だからといって何か優しい言葉をかけるほど、ペシュメルガはお人好しではないし、口達者でもない。
 黙って、いつもの位置に立つ。
 ナナミはそれを黙って見続け、男の動作が止まると姿勢を正した。
 そしてまた、歌い始める。
 柔らかで穏やかな旋律。高過ぎず低過ぎない澄んだ歌声が、耳に滑らかに入っては心地良く溶ける。歌う少女の背中はどこか物悲しく、細い歌声と相俟って益々小さく見えた。
 ペシュメルガは歌の上手い下手などは分からなかったが、少女の歌はとりあえず耳障りではないな、と思う。
 夜空に散って消えていく言葉。まるでそれは魔力を備えているかのようで、ペシュメルガの脳裏にあるイメージを結ぶ。
 このテラスから、軽やかに身を躍らせる少女の姿を。
「へ!? きゃあっ!!
 ナナミの歌声が悲鳴に変わって響き渡る。
 いつも通りの甲高い少女の声に、ペシュメルガは自分のした行動に気付いた。
 あろう事か、彼女の細い腰に手を回して小さな身体を軽々と持ち上げていたのである。
「ペ、ペペペペ……ペシュメルガさん!?」
 突然の事態に目を丸くしたナナミが疑問の視線を投げかける。少女の動揺ぶりは見事なものだったが、ペシュメルガもまたそれなりに驚いていた。
 いくらよぎった映像が不吉なものであろうと、自分がこんな行動に出るとは思わなかった。
「……テラスから、落ちるような気がした」
「……落ちませんよ?」
 ナナミが笑った瞬間、なぜだか自分の行動は正しかったのだと確信をしてしまった。
 ここから落ちたらどうなるか、子供でも分かる結末だ。少女はそれを望んでいない。彼女は落ちないだろう。それは分かる。
 ただ、なぜだろう。
 陰のある笑顔の少女に、言いようのない不安に駆られた。
 自分らしくないと自覚しつつも、ペシュメルガはナナミを降ろさない。
「お前は……セイレーンだな」
「セイレーン? モンスターの?」
 視線で訴えても降ろしてくれないペシュメルガに諦めたのか、ナナミは大人しく答え返す。
「遠征で相手にするセイレーンとは少し違う」
 系統的には同じ種族かもしれないが、ペシュメルガの言うセイレーンとは、水鳥の身体に人間の女性の顔をした海の魔物だ。
広大な海の真ん中にポッカリと浮かぶ小島に住んでおり、近くを通る船を美しい歌声で魅了して島の近くまで引き寄せ、難破させてしまう船乗りの天敵である。
 そういった事をペシュメルガが説明すると、ナナミは首を傾げた。
「私の歌、美しくなんかないし、人を魅了するなんてものじゃありませんよ?」
 ナナミはそう言うが、彼女の歌はセイレーンのそれと似ているのではないかとペシュメルガは思う。
 なぜなら、自分は実際にこうして引き寄せられた。
「――随分と熱心に歌っていたが、なぜだ?」
 本人の意見をさらりと流して話題を転化させると、彼女はあっさりと乗ってきた。
「あのね、リオウ、今日は遠征で外泊なんです。
 きっともう今頃は野宿していると思うから、よく眠れてると良いなぁって」
 おとうと義弟を想って歌っていたらしい。
 ナナミが此処で歌っても、弟の眠りがどう変化するわけでもあるまいと勿論ペシュメルガは考えたが、それを口に出す事はしない。
 言えば、少女の顔は憂いに染まるだろう。
 一見無駄な行為でも、気持ちのこもったものを他者が踏み潰す権利はない。
「それも良いだろうが、お前もそろそろ眠れ。
 今の時刻を弁えているか?」
「へ?」
「12時近くだ」
「えぇっ!?」
 驚いた少女の身体が飛び上がるも、足をがっちり抱えているので取り落としたりはしなかった。両腕にかかる重さは、鍛えられた戦士であるペシュメルガなどにとっては子犬に等しい。
「……次に同じように歌う時は、一曲だけにしろ。出来るだけ一人で歌え」
「? 歌っちゃいけないって事ですか?」
「いや、そうではない」
 ではどういう事だろうと瞳が語る。
 素直な少女に苦笑して、ペシュメルガは自分と同じ高さにある頭を撫でた。
「太陽の下で賑やかに歌うには構わないだろう。
 だが、一人で寂しく歌うのはやめておけ。セイレーンの歌になる」
 言いたい事だけ言って、ペシュメルガはナナミを降ろす。ナナミは尚も言葉の意味を問うたが、黒騎士はそれ以上語ろうとしなかった。
「ええと……、なんかよく分からないけど、分かりました」
 頭に疑問符を浮かばせたまま、ナナミは素直に頷いた。
 少女には訳がわからないだろう。
 ペシュメルガ自身、言っている事がかなり意味不明である事を自覚している。
 が、上手く説明は出来ないが、確信はある。
 少女の歌はセイレーンの歌。
 義弟を……大事な人を想い歌うのに、聞く者を惑わせ引き付ける魔性の歌。
「……セイレーンは船乗りを誘うんですよね?」
「そう聞いている」
 帰ろうとしていたナナミが、ふと思いついた様子で口を開く。
「私、セイレーンの気持ちが少しだけ分かるような気がします」
 面白い意見に、ペシュメルガは黙って続きを促す。
 少女は花咲くように美しく、にこりと笑った。
「きっとね、海の真ん中に一人で住んでいるセイレーンは寂しいんですよ」
 寂しいから、歌で引っ張ってきちゃうんです。
 やけに自信満々に付け足して、最後に「おやすみなさい」と挨拶をしてナナミは去っていった。


「……なるほど」
 テラスに残されたペシュメルガは、納得した様子で頷いた。





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