優秀な戦士であり、衛生兵であり、将でもある少女は、言い方は悪いがとても"便利"な存在である。
 それ故、軍には――戦争には欠かす事の出来ない重要な人間だった。


不可触



 その日の戦いは、小さいながらも激しい消耗戦だった。
 両軍は拮抗し、策も、弄せば面白いようにぶつかって意味の無いものになる。
 酷い戦だと、誰かが言った。
 無論、酷くない戦などないのだが、何回も戦いに出る兵士達が「酷い」と言うほどの戦いだった。
 軍師達が事態の打開を狙うも、相手も当然同じように思って動く。その度に起こる戦闘に負傷者は鰻上りに増えていく。
 ――幸いにして、同盟軍はから辛くも勝利をもぎ取った。
 犠牲の多過ぎる勝利ではあったが、本拠地近くで起きた戦で負けるわけにはいかない。ここを突破されれば、城が危なかった。
「リドリーさん、私と私の隊、救護班に変わります。許可を」
 今回リドリーの部隊の小隊指揮官として出陣したナナミが、総監督たるコボルトに報告兼許可を求めて馬で駆けてきた。
 彼女が本来所属する親衛隊を離れた場合に預かる部隊は少し変わっていて、歩兵と救護の二つの顔を持つ。隊長であるナナミが衛生兵も出来るせいなのか、隊の半数の兵士が衛生兵としての技術を取得していた。
 歩兵としての戦力もさる事ながら、いざという時の応急処置と医療技術は有り難いので、水面下ではナナミの隊がどこと組むのか争われている。
「許可します。手は必要ですか?」
 軍主の義姉(あね)であるナナミに敬語で答えたリドリーは、戦争用の出で立ちで血塗れのナナミを見てわずかに目を細めた。
「少しでも良いですからお願いします。手が足りません」
 一瞬だけきゅっと辛そうに目を眇めた少女が、すぐに身を翻して馬に跨る。先程まで最前線に立って戦っていた彼女は当然疲労を感じているはずなのに、身のこなしは軽い。
 気力でそれを成しているのだとしても、大した少女だとコボルトの長は思った。

 手勢を率いてナナミの後を追ったリドリーは、目の前に広がる光景に鼻に皺を寄せた。
 勝ちが確定し、一時の勝利の余韻と敵軍が去った戦場では、あちらこちらで負傷兵の応急手当が行われている。一応治療場所は何箇所かに設定されているのだが、そこまで運べない重傷者の元に、衛生兵が走っていっているのが見えた。
 衛生兵は志願者が少ない為慢性不足気味なのだが、今回は特にそれが顕著に分かる。怪我人の数が多すぎて、とてもではないが手が足りていない。
 取り乱して泣き叫ぶ者、子供のように母の名を呼ぶ者、もはや声すら出せない者……見る方も心に傷を負う光景だった。
 その中をすり抜けていく小さな影。
 重傷者を率先して治療し、指示を乞う者には冷徹でさえある的確なそれを与え、表情を変える事無く手当てをしていく。
「ナナミ殿、多少の応急手当の覚えがある者達です。お使い下さい」
「ありがとうございます」
 礼を言う時間も惜しいのか、ナナミは矢継ぎ早にリドリー配下のコボルト達に指示を出す。優秀なコボルト達はすぐさま医療道具片手に走っていき、リドリーがその場に残された。
「時間がかかりそうですか?」
「見通しがつかないです。リドリーさん、ここ押さえてもらえませんか?」
 立っている者は将軍でも使え、という事か。同盟軍にも一応設置されている階級などさっぱり無視して、ナナミが言う。
 部下を彼女に貸すのと、時間を聞くのが目的だったリドリーは、部隊の中心に戻るのが遅くなると思っても口には出さず、言われた通り兵士の止血を手伝う。
「死にたくない……死にたくないです、ナナミ様ぁ……」
「寝たら最後よ! 起きてて!!」
 叱咤と激励の声をかけつつ、ナナミが手早く処置を施していく。
 だが、少し遅かったらしい。
「……手、握ってもらえ、ません、か……?」
「握ったら手当てが出来ない!」
 そう言うナナミも、分かっていたのだろう。
 この兵士はもう助からない。彼の顔に浮かんでいるのは、もはや死相だ。
「お願い……です、ナナ、ミ様……」
「しっかりして!!」
 手当てが無駄だと判断したのか、死にゆく者の願いにほだされたのか、とうとうナナミが処置をやめて兵士の手を握る。
「あ、りがと……ござ…………す……」
 彼は最後の最後で穏やかな顔をして、そして目を閉じた。
 背筋に悪寒が走り、ひとつの命が目の前で失われた事を身体が理解する。周囲の兵士達がさっと黙り、リドリーが瞑目した。
 ―――目を開けたコボルトが見たのは、今死んだばかりの兵士の手を胸の上で組み合わせ、早々と次の怪我人の元に走るナナミだった。
 それを見た兵士達は信じられないというように眉根を寄せ、遠くなっていく華奢な背中を見る。彼女に会釈をされ、すれ違ったリドリーだけが、少女の表情を窺い知る事が出来た。
 まるで自分が傷つけられ、その痛みにじっと耐えているような顔。
 何も知らずに彼女に憤る兵士達に腹立ちながら、リドリーも自らの職務に戻っていった。


 突破されたら危なかったのだが、戦場が城に近いのは幸運だった。
 物資は運搬が楽だし、人の行き来もたやすい。
 同盟軍は、どうにかその日のうちに帰還する事が出来た。
「では、これで失礼します」
「ご苦労」
 日付が変わってから少しした時刻、ようやく自分の担当する事後処理が一段落したリドリーは、部下の背を見送って息をついた。
 毎回思う事だが、勝っても負けても戦争の後片付けは気分の悪い仕事だ。
 リドリーは部屋の空気が淀んでいるような気がして、首もとのスカーフを緩めつつ窓を開ける。やや風が吹いている為、開け放った窓からさぁっと空気が入り込んだ。
 一瞬の心地良さの後に襲ってきたのは、コボルトの鋭い嗅覚が嗅ぎ取った戦場の匂い。
 まるで良くならなかった空気に、苦虫を噛み潰したような顔になったリドリーは、袖のカフスボタンを外しながらある事に気付いた。
 血と埃と金物という戦場の匂いと、この城の雑多な匂いに紛れて香る、ほのかに甘い匂い。
 ここはリドリーの執務室兼私室である。地上からは離れ、窓の外は大木の葉先がわずかに見える高さにある。こんになも強く、窓の外から人の匂いがするという事はありえないはずなのだ。
「誰か……いや、ナナミ殿、おられますか?」
 驚いたように息を呑む音が聞こえ、途端にひとつの気配が出現する。
 深々と息を吐いたリドリーは、開けたばかりの窓から上半身を乗り出して下を覗き込んだ。手を伸ばして枝を避けると、小さな顔が出てくる。
 少女の瞳は赤く、頬には涙の跡があった。
「こちらへ」
 胸に突き上げる痛みを綺麗に隠して、リドリーはナナミに言った。
 彼女の身体能力なら上手い事窓まで登れるだろうという確信と、一秒でも彼女を放っておけない心配からのものだった。
「キバ将軍には黙っておいてあげましょう。だから、こちらに来なさい」
 さりげない脅しと命令に、ナナミは一つ溜息をついて肩の力を抜いた。了承と言うより、諦めの動作だろう。出っ張った小枝に手をかけ、椅子にしていた大ぶりな枝を音も無く蹴って勢いをつけ、彼女はすんなりと部屋の中に進入した。
 つい数時間前、戦で荒れた大地を軽やかに走り回っていた頼りがいのあるナナミは、今はとてつもなく小さく見える。
 少しでも触れれば、儚く消え失せてしまいそうだ。
 背筋を走った悪寒を無視して、リドリーはナナミから微妙に視線をずらして言った。
「初夏とはいえ、夜は冷えます。疲れた身体で夜風に当たるのは感心しませんよ」
 さすがに鎧などは脱いで身体も清められていたが、今の気温の外にいるにはナナミの格好は軽装過ぎる。
「……はい。ありがとうございます」
 表面上は変わらず、雰囲気で少女がホッとしたのが分かった。
 普通の村娘であったはずの彼女が、いつの間にそんな技術を身につけたのだろう。それを考えると、リドリーはたまらなくなった。
 戦争は、彼女から何を奪い、何を与えたのだろう。
「気持ち良く眠る為に、お茶を一杯いかかがな? ちょうど飲もうと思っていたところなのですよ」
 リドリーが口にするのは他愛無い話題。
 なぜならナナミは、慰めも同情も必要としていない。泣いている理由を訊ねるのは容易いが、それは彼女の望む事ではない。
 それぐらい、いくらか年を重ねれば分かるものだ。
「ええ、頂きます」
 ぎこちなく微笑むナナミに、コボルトは控えめに笑って返した。
 核心に触れない事こそが最上級の手段だと分かるのに、それの何と歯痒い事か。己の無力さを痛感する。


 何にも触れない、実の無い会話を続けながら、リドリーは思った。
 この少女が、こんな風に泣く事のない日がくるようにと。
 一刻も早く、彼女が心から笑える日がくるようにと。


 少女の浮かべる笑顔にある翳は取れない。









inserted by FC2 system