嵐の到来を予感させる風だった。 風吹く丘 激しい風に、髪や服が乱される。 やや鬱陶しい感は否めないものの、ルックはこういう風自体は嫌いではない。 初夏の風はやや肌寒くもあるが、逆にそれが心地良い。 面倒臭がりでろくに外出もしないルックだが、荒れる風に誘われて珍しく城の外に出てきていた。 同盟軍本拠地周辺はモンスターも掃討されているので、一人で出歩いてもそれほどの危険はない。もっとも、類稀な魔法の才能を持った真の紋章持ちたるルックには、ほとんどのモンスターは敵ではない。 うねるような空気の流れを感じながら、最も風が吹き乱れる場所に向かって歩いていく。ルックの求める条件に当てはまるのは、さほど遠くない小さな丘のようだった。 隙と無駄の無い歩みを進めていたルックは、今までなかった人影が丘に現れた事に気付く。 見た事のあるような気がしないでもない。 人嫌いの彼は、在籍している同盟軍の者でもあまり顔を覚えていなかった。 自分から他人に近付くのは嫌だったが、その人物がいる場所が一番空気が揺れている。絶好のポイントは逃したくなく、ルックは仕方なくそのまま歩いていった。 近付いていくうちに、人影がやけに小さい事が分かった。さらに歩を進めれば、それもそうだろうと納得する。 いたのは、ルックと同じ年頃の少女だった。 しかも彼が顔を知っている、数少ない人物の一人である。 現在望まざるも名を連ねている同盟軍軍主の、やかましい 強風で髪をどれほど乱されても、少女は一向に気にせず両手を広げて立っている。その両目は、夢見るように閉じられていた。 「風が懐いてる?」 「風が嬉しがってる」 言葉は同時に発せられた。 少女は大分近付いていたルックの気配に気付いていたのだろう。驚く様子もなくルックの方に振り向く。 「あ……ルック、さん?」 ぼんやりとした黒い双眸が、ルックを見上げた。 放り投げられた手袋と、絶妙な配置を計算されて置かれた三節棍が草の上に横たわる。それらのすぐ側にナナミは座っていた。 今度はルックがナナミの隣に立ち、天を仰いで瞼を落とす。 両手を広げる事こそしないが、ほとんど先程のナナミと同じである。 「ああ…………良い風だ」 口をついて出た言葉に、ルック自身が驚く。 はっとして目を開けてナナミを見たが、彼女はまた気持ち良さそうに瞳を閉じている。聞こえていたのに何も言わないのか、聞こえていないのか定かではないが、そういう事を気にしなくていい相手だと分かった。 涼しげでどこか荒ぶる大気。嵐は午後にも城近くに接近するだろう。城の住人達は物憂げにこの曇り空を見上げているに違いない。 しかし、ルックにはこの風が心地良い。 「……雨の、匂い」 ぽつりとナナミが言い、それを聞いたルックは「犬か」とは思ったが口には出さなかった。それに、雨が来るのは事実だったので。 それぞれ存分に風を感じた二人は、やがてどちらともなく意識を戻した。 「ルックさんも風と遊びにきたの?」 「……遊んだっていうのは語弊のような気がするけどね」 珍しく、彼にしては非常に珍しく、まともに答えを返して会話を続けた。 「今が一番良い風だよね。もうそろそろしたら、きっと荒れ過ぎちゃう」 よく分かっているな、と思ってもルックは口にしない。 「気持ち良い……」 くつろいだ犬か猫のような顔をして、ナナミはころんと寝転がる。 「こういう時、普通"オンナノコ"ってやつは外に出たがらないもんじゃないの?」 彼女のあまりの無防備さに、ルックはいつものように刺々しい言葉を言い放つ。ナナミはくすくす笑うと、灰色の雲に覆われた空を見上げた。 「こんなに気持ち良い風に触れないなら、普通の女の子じゃなくても良いもん」 少しむくれた様子の少女は、本当に幸せそうに風を身に受ける。風を司る紋章を持つ少年は、風が妙に少女を纏わりつくの感じていた。 風はただの自然現象であり、そこに感情は無い。だがルックには、感情のようなものを見る事があるように思えた。不確かな物言いしか出来ないのは不本意だが、そうとしか言いようが無いのだ。 今ここら一帯の風は、主たるルックと……ナナミを受け入れて踊るように流れている。 「ルックさんは……」 「さん付けじゃなくて良い」 「じゃあ、ルック君で良い?」 「良いよ」 「ルック君は、頭の先から足の指先まで風が通ってるようなそんな錯覚を覚えた事無い?」 ナナミの言った事に、ルックは驚いて目を瞬いた。 「……ある」 彼女の言う錯覚――感覚は、ルックが割と頻繁に感じるものだった。 「風が吹く度に、身体の中身が洗われるような気がするんだよね。今日なんか特にそう。気持ち良いの」 嬉しそうに笑う彼女に、同意を示したルックは顔を歪ませて笑った。 それを感じた時の爽快感の次に訪れるのは、これ以上無い嫌悪感。望まないのに与えられた力でより近く感じる風を、気持ち良いと思う事に吐き気がする。 「そういえば、何で君はここを選んだわけ?」 ルックは真なる風の紋章があったからこそ、風の動きが分かってここにやって来た。 城周辺は湖に面している方向以外は広々とした大地が広がっており、今日のような天候ならば風はどこでも吹き荒れている。 「えっと……何となく、ここが一番気持ち良さそうだったから」 先程は「犬か」と思ったが、今度は「野生の獣か」と思うルックだった。 「でも来て良かった。風は気持ち良いし、ルック君と会えてお話出来たし」 「安上がりだね」 「些細な事を楽しむようにするのは生きる為の知恵だよ、ルック君」 ルックの毒舌を怒るでもなく、ナナミは逆にそう言った。 彼女をあまり頭の良くない少女だと判断していたルックは、なぜか反撃を受けたように心地になって彼女を見遣る。 「そうした方が楽しいよ。やってみれば?」 ナナミの瞳は真っ直ぐにルックを見、彼の全てを見透かすように深かった。 彼女は何を何処まで知っているのか瞬間的に恐怖して、次に何を馬鹿馬鹿しい事をと少年は自分の思った事を否定する。そんな事があるはずはない。 「世界は小さいって話を聞いた事がある?」 「は?」 いきなり何を言い出すんだ、とルックは胡乱げにナナミを見返す。 「世界は限りないように広がってるんだけど、本当はとても小さいんだって」 少年の冷たい視線もなんのその、ナナミは歌うように言葉を紡ぐ。 詩的な響きを持つそれに、元来知的好奇心の強いルックは意識を引き寄せられる。 「自分の見えるところ、聞こえるところ、手が届くところ、感じられるところにしかないんだって」 紋章で操られるかの如く、風が言葉に呼応するように渦巻いていく。 「世界は、存在するのんじゃない、創造するんだって」 ナナミを中心に、風が下りては昇っていく。 まるで意思を持ったかのように、少女をその身に、その手に抱かんと。 「――何、それ?」 有り得ない筈の空気の動きを鮮明に見続けていたルックは、やや掠れた声を絞り出した。 「ん〜? ゲンカクじいちゃんが、自分の大好きな詩とか一文を集めて書いたっていう本にあったひとつ。あ、元はもっと綺麗な文章だったよ」 けろりとした表情で説明してくる彼女は、もう先程のような雰囲気も瞳もしていない。 「分かるような分からないような難しい言葉だよね、ルック君は分かる? 今なんとなく思い出したの」 ルックは返答を拒否した。 分かる――分かるからこそ、認められなかった。 「君って……」 怖い娘だと、心底ルックは思う。 何も考えていないようで、こちらの事を全て見抜いているような言動をする。実際そんな事はないのだけれど、それはとても心臓に悪い。 不快でないのが不思議だった。 困ったように笑うルックに、ナナミは「ルック君が笑った」と、風と"遊んで"いた時よりも嬉しげに笑う。 「ナナミ」 初めて名を呼ばれたナナミは驚きに目を丸くして、ルックはその驚き方がおかしくてまた笑った。 「興味深い事を色々聞かせてくれたお返しだよ」 真なる風の紋章の継承者はそう言って、ゆっくりと右手を掲げる。 途端、大気が震え、鳴動する。 風が激しく唸ってナナミとルックに向かい、そのあまりの凄まじさに少女がこれ以上ないくらいに目を見開いた。瞳を閉じないところが彼女らしい。 主の命と、彼等自身の意思で、風は猛々しくナナミを包み込む。 全てを薙ぎ倒す暴力のように見えたそれは、荒々しさなどかけらも無い優しさでふわっと身を包んでくれた。 「う、わ……」 今まで感じた事の無い空気。 冷たいようで優しい。 重力などを無視してナナミの身体を宙に浮かせ、ひっきりなしに吹き付ける。 「すごいすごいすごーい!!」 同じように地から足を離しているルックに、ナナミは身体全体で喜びと嬉しさを表現した。その子供のように無邪気な様子に少年が微笑しかけて、急に不機嫌な顔に変わった。 「……呼びつけられたから、ちょっと出掛けてくる」 「?? う、うん」 彼の急な発言に訳が分からないといった様子のナナミは、それでもルックが何かの用で出掛けなくてはならない事を理解したらしい。 ルックはナナミの手袋と三節棍を風に運ばせて、彼女の手に握らせた。 「そろそろ荒れ出すから、城に戻った方が良いよ」 「分かった。そうする」 風使いであるルックの言葉に、ナナミは素直に頷いた。 最後にもう一度風にナナミをくすぐらせて、それから彼女を解放させる。名残惜しそうな気配を漂わせる空気を一瞥して、ルックは転移魔法の呪文を唱え始める。 光がルックを包み始めたその時。 「また一緒に風と遊ぼうね!」 眩しいぐらいの笑顔で、ナナミがそう言った。 「……それも良いかもね」 ルックは、ナナミに負けない極上の笑みを浮かべて消えた。 綺麗な顔の美しい笑顔に思わず顔を赤くしたナナミは、しばらく火照った頬に手を当てていた。 「あ、さ、さっきのやつって続きがあったんだっけ」 ルックは解した、ナナミには意味不明の一文について思い出した彼女は、何かを誤魔化すように続ける。 「……世界は、とても小さい」 手袋と三節棍を持った手を背に回し、身体をリズムに乗るように左右に揺らしながら歩き出したナナミは、ルックの消えた空を見上げながら語る。 「でも、それを知っている人にはとても大きい」 風が、やはりナナミに纏わりつくように吹き付けた。 「そして、世界は、それを知っている人の前には一つじゃない」 言の葉はすぐさま大気に散り、聞く者はいない。 風が、嵐の接近を告げるようにざあざあ鳴った。 |