ああ、彼女は。 彼女は―――彼女もまた、紛れもなく英雄の子であった。 英雄の娘 同盟軍本拠地には立派な図書館が建っており、それとは別に資料室というものもいくつかある。こちらは軍師や軍師付き参謀、将軍や頭領に隊長といった幹部クラスが利用する、軍事・軍事関連書物のみを集めた部屋だった。 正軍師であるシュウは、私室として一つ確保している重要な場所だ。 今日も会議に必要な資料を探して、私室ではない資料室に訪れたシュウは、思いがけない先客にドアを開いたままに固まってしまった。 「……シュウさん?」 その先客は、シュウに気付くと緩やかに本から顔をあげ、呼びかけてくる。 軍主の姉、ナナミその人であった。 この部屋に重要書類の類は一切なく、出入りは制限されていない。同盟軍の上層部なら断りもなく入室出来るのであるが、まさかこの少女がいるとは思わなかった。 「珍しいところで会うな」 一時の驚きから戻ったシュウは、後ろ手でドアを閉めつつ無表情のまま話し掛ける。 この少女は自分を嫌っているとシュウは認識していた。別に気に入られようとする必要はなく、逆に嫌われようとする必要もない。 「なぜここにいる? ここにはお前の興味がありそうなものはないと思うが」 「探している本があったの。エミリアさんに聞いてみたら、こっちにあるだろうって言われたから……」 怪訝なほど静かに言うナナミの手には、シュウにも馴染みの兵法書があった。 戦争を嫌っている少女が持つにはいささか不似合いなそれに、シュウは思わず眉を寄せる。 「兵法書をか?」 「そう。懐かしくて」 分厚い本をぺらぺらとめくる姿は、いつも元気印のナナミとかけ離れていた。 「私達を育ててくれた人が持ってたの」 それが誰であるか、同盟軍に属する者なら誰でも知っている。 かつてこの地で名を馳せた、彼の名将。 ジョウストン都市同盟数多の英雄の中でも、栄光と恥辱の両極端の名を冠する男。 「うちは貧乏で、余分なものを買うお金なんてなくて、時々食べるのにも困って……でも、爺ちゃんが手放さなかった本」 愛しげに、憎らしげに、ナナミは本の表紙をゆっくり撫でる。 「軍争――その ナナミの唇から厳かに淀みなく呟かれたそれは、彼女の持つ本に書かれている文句であった。 「お前……なぜそれを?」 「これが私達の寝物語だよ。大きくなってからは、自分で読んだ。うちは娯楽なんて少ないから、何度も読んでるうちに暗記しちゃった」 爺ちゃんは変な顔してたけどね、と付け足した言葉は軽かったが、口調は決して軽くなかった。 「その 呪文のように呟かれていく言の葉。それは、意味を理解していない響きではなく。 「動かざること山の如し。知りがた難きこと あどけないはずの少女の顔は、人形のように硬質で。 「動くこと雷霆 語られていく兵法がしっくりとなじむ。 「ほかにも爺ちゃんは色々と教えてくれたよ」 教えられた内容が何であったのか、語られないからこそ逆に分かる。 それが、生きていく為の知識と術だけではない事が。 常はどこか暖かさを感じさせる闇色の瞳が、今は冴え冴えとシュウを見ている。 唐突に、そして強烈に、彼は悟った。 ――――この娘は、ゲンカク英雄の娘。 武芸の腕こそ秀でているものの、何の変哲もない普通の少女だと認識していた。 育ちも立場も受けた教育も抜きん出て変わった部分などない、ただの小娘だったはずなのに――彼女は違った。 「リオウだって、それぐらい出来るよ。 あの子、軍務に疎くないでしょう?」 言われて、気付く。 確かに、軍隊経験があるとはいえ、あの年若い軍主は戦略や指揮に詳しかった。 物覚えも良く、頭の良い子供だとシュウも思っていた。その程度にしか、考えていなかった。 「爺ちゃんはそんな事を教えようとはしなかったけど、一緒に暮らして育てられれば、こうなると思うな」 くすりと笑ったナナミに、シュウは胸中で脱帽する。 軍主は、受け継いだ紋章もあるから、英雄の子と皆にしっかり認識される。逆に、彼ばかりが名将の子だとされているのも事実であり、シュウもまたそうだった。 が、彼はその考えを改めざるを得ない自分を認めていた。 「ナナミ」 しっかりと名前を呼ぶと、ナナミはきょとんと首を傾げて言葉を待つ。 そんな幼子のような動作に内心苦笑して、それでも顔は真面目に言葉を紡ぐ。 「お前も、ゲンカクの娘なのだな」 少女は目を眇めて、蠱惑的に微笑んだ。 *作中引用 孫子 |