何の為の、言葉? 言の葉 「It turns out that the ship sinks」 この辺りでは聞かない言語が耳に入ってきたので、ちょうど製図が終わったテンプルトンは顔を上げた。 分厚い本を手にした彼女は、呪文を詠唱する魔法使いのように呟いていく。 「Sound was still played in darkness, without ceasing」 職業上、多くの言語に精通するテンプルトンには、この言葉が理解出来た。 やや不吉な文章の連なりであったが、聞いていて気持ちの良い声をしているナナミの朗読はずっと聴きたくなってしまう。 「Although people who run about trying to escape have not noticed, the musician died as a musician to the last……あれ? テンプルトン君?」 今までの精巧な人形のような顔が一転、いつもの少女の顔になる。 「お仕事終わったの?」 「うん」 机の上の紙を目で示せば、ナナミは花がほころぶように笑う。 「じゃあお茶入れるね」 「ありがとう」 意外に本好きな彼女は頻繁に図書館に顔を出し、仲の良いテンプルトンのいる部屋に足を伸ばす。 本好き仲間のカーンがおらず、少年の仕事が立て込んでいないときに限り、ナナミはこの部屋で読書をして、テンプルトンとお茶を飲むのだ。 料理の腕は殺人的なナナミだが、お茶は人並みに淹れられる。 手際良く運ばれてきた紅茶(彼女は珈琲は胃に悪いと入れてくれない)の芳醇な香りに、今頃になって疲労が襲ってきたテンプルトンは知らず安堵の息をついた。 「お疲れ様」 限りなく優しい彼女に、幼い職人は疲れが癒されていくのを感じた。 「ナナミは本当に言語に強いね。本を翻訳する仕事が出来るかもよ?」 「無理よ。私、書くのが苦手だもの。読めて話せても、書けなければその仕事は出来ないんじゃない?」 「じゃあ通訳とか」 「それなら出来そうね。あ、でもメモしろとか言われたら困っちゃう」 わずかな菓子とお茶を片手に、笑いながら他愛無い事を話する。 それだけの事が、戦争の続く生活では奇跡のように思えてしまう。 わずかな時間を楽しもう―――この時を過ごす度にそう考えるテンプルトンは、猫舌の自分にもようやく飲める温度になってきた紅茶に口をつける。 「ねぇテンプルトン君、言葉は、とてもたくさんあるよね」 「うん?」 「色々な国の、色々な言葉。 あっちの言語では上手く言えなかった事を、こっちの言語は上手く言い表す事もある」 先程まで一心不乱に読んでいた本の、年月を経て薄くなってしまったタイトルを撫でながら、ナナミはゆったりとした調子で語る。 「世界には言葉が溢れているのに、どうして戦争が起きるんだろうね」 喉を通った紅茶は、ひどく苦かった。 「人は分かり合う為の手段があるのに、なんでそれで済まないんだろう」 答えを求められているわけではないから、テンプルトンは何も言わない。 ナナミはこうして自分の疑問を口に出して、自分の中に降り積もるのを阻止するのが常だった。 「人は人を愛せるのに、世界は戦争をするんだね。私達は戦争をしているのね」 ただ、独り言に近い呟きはあまりに当たり前の事で、それ故答えを出せない最も難しい事でもあった。 十年と少ししか生きていないテンプルトンには、答えられるはずもないもの。 「ああでも……、言葉も人を傷つける。 私達人間は完全じゃないから、仕方ないのかな」 仕方がないと言いながら、決してそうは思っていない顔。 一縷の希望を捨てない目。 「……悲しいね」 少年がようやく口にしたのは、短い一言。 「うん」 一言の中に、人々が抱いてきた思いが詰まっている。 「戦争が終わったら、僕等は言葉を使おうね」 突然言い出したテンプルトンに、ナナミはきょとんとした瞳で首を傾げた。 姉のようで妹のような彼女が、好きだ。 「命が奪われる寸前までは、言葉で分かり合う努力をしよう……諦めないで」 戦乱の世界で、争いがなくとも、甘い言葉でしかなかないだろう。 けれど、穏やかな表情をするテンプルトンの目は真剣だった。 「うん…………うん」 何度も頷くナナミは泣くのを堪えるように歪み、きつく目を瞑る。 二人は約束の証とでも言うように、互いの頬に口付けた。 子供の戯言と、大人達は片付けるかもしれない。 戦わねば守れないというのも真実だろう。 だが、この世に数多存在する言葉は、戦いを回避する事も出来るのではないかと信じたい。 |