ゆらゆらと、揺れるみなも水面が少女を誘う。 甘く、抗い難い誘惑に、今日の少女は抵抗する力を持たなかった。 飲み込まれるもの 自ら水中に没したナナミは、思ったよりも水が温かいなぁ、などとのんきに考えていた。 水面にぶつかる寸前、誰かが自分の名を呼んだような気がして笑ったのを覚えているが、今の少女には些細な事だった。 水の中は、遠い遠い昔にいた母の胎内のよう。 少なくとも、ナナミにはとても安心出来る空間だった。 息が続く限り潜っていようと思っていたのだが、バチャバチャという不躾な音が鼓膜を震わす。水の中は陸よりも音が伝わりやすいので、すぐに分かる。 無粋な邪魔に、ひどく気分を害された。 が、次の瞬間にはどうでも良くなって、招くように揺れる音の発信源――人間の手のある方へ向かって泳ぎだす。 水中の世界から、陸の世界へ。 ぼやけていた視界は、すぐさまクリアになる。 邪魔をしてくれた人間は、前髪で瞳を隠す海の男。 「ああ、無事でしたかい」 その独特の調子は、ナナミの心を荒立てはしなかった。 「……ヤム・クーさん」 自分の声は、驚くほど低く弱々しい。 「ナナミさんが手摺から落ちていくところが見えたんで。でも笑ってたんで、心配はいらねぇと思ったんですが……」 「うん」 「やっぱり、余計なお世話でしたね」 「ううん」 気遣ってくれた事は、今の麻痺したナナミの心でも嬉しかった。 「ありがとうございます」 水の中から礼を言うと、彼が少し困ったように笑った気配がした。 嵌めたままだった手袋と履いたままだった靴を地面に放り投げながら、ナナミはヤム・クーが何か言う前に水に潜る。 服は近々洗濯する予定であったから、濡れて汚れても大した事はない。衝動的な行動だったとはいえ、結局は多少の計算がある自分に苦笑する。 水の中で身体を向きを変えて、水の中から上を見る。人間の身体構造上、それはわずかな時間しか許されないが、一瞬見えた水面はやはりゆらゆら揺れていた。 透き通った水は太陽の光を良く通して、白い雲がどこにあるのかさえ見える。 この辺りは深度が浅いので、ナナミの山育ちにしては優れている泳力を以ってすれば、簡単に底まで潜る事が出来た。 身体が浮いていかないように適当な岩を掴むと、身体を丸めて瞳を閉じる。 どうして人間は水の中に棲めないのだろうか―――そんな疑問を、少し息苦しくなってきたナナミは抱いた。 ナナミは息の続くまで水中に潜り、限界になって水面に顔を出す。 存分に酸素を吸い込んで息を落ち着かせたら、ヤム・クーが先程と同じ地面に膝をついた態勢のままでいる事に気付いた。 「ヤム・クーさん?」 岸まで泳ぎ着いたナナミが、彼に声をかける。 「放って、おけやしねぇでしょう?」 「……放っておいて、いいよ?」 「出来やせんて」 今度ははっきりと苦笑して、ヤム・クーはナナミに手を差し出す。 「上がんなさい。そんな顔で泳がれたら、溺れそうで気が気じゃありやせん」 「……平気だよ」 笑う少女は、今にも身体の力を抜いて水の中に戻りそうな顔をしている。 まるで、そここそが自分の世界だと言うように。 「山育ちなのにナナミは泳ぎが上手いって、じいちゃん言ってたから」 ナナミはヤム・クーの言っている意味を分かっていて、わざとずれた返答をする。 確かに、水を仕事場として慣れ親しむヤム・クーの目から見ても、少女の泳ぎは頷けるものがある。けれど、彼女自身が泳がなくなればどうしようもない。 ヤム・クーはひとつ溜息をついて、右手を水に入れた。 「ナナミさん」 呼びながら、今しがた水中に入れられた右手がゆっくりとナナミの首を滑っていき、顎を掴んで顔を上げさせる。 「良い子ですから、上がんなさい」 言葉は子供に対するそれなのに、ヤム・クーは普段全く感じさせない男の匂いを全身から放っていた。 ビクトールやフリックのような傭兵達のそれとは違う、マイクロトフやカミューのような騎士達のそれとも違う、濃密で圧倒的なそれは、理性が崩れかけて本能が鋭くなっていたナナミにこれ以上無く効果的なものだった。 華奢な身体の微かな震えを、ヤム・クーは見逃さなかった。着物が濡れるのも構わず、未だ水中にあるナナミの細腰に腕を回して、強引に引き上げる。 勢いで、彼女の身体はすっぽりとヤム・クーの腕の中に収まった。 小さな身体だった。身につけている服が水を吸っている分の重さはあったが、それでも充分軽い。 ナナミに触れている部分からじわじわ濡れていく感覚がある。だが、今のヤム・クーにはどうでも良い事だ。 至近距離で見る闇色の双眸。 普段ある強い光は小さくなって、少女が抱える傷を暴露する。 傷つき、疲れ果てた者の目。 「ヤム・クーさん?」 ぼろぼろになりながら、それでも最後の一線で諦めない。 だからこそ、傷は深く多い。 慈しみと痛みの両方を兼ね備えたヤム・クーの瞳に見詰められ、ナナミは泣きそうな顔になる。 彼が何も聞かないのは、彼女が答えないからだった。 こんなに幼い娘は、人に甘える事をしない。年頃のせいなのか、少女本来のものなのかは知らないが、とりあえずは彼女の望む通りにした。 けれど。 けれど、その結果はこれなのだろうか。 「……どう、したんです?」 「何もない。何もないよ……」 「もうその言葉は信用しやせん」 いやにはっきりと心の内を晒せと述べるヤム・クーに、腕の中のナナミは一瞬身を硬くする。逃げようとしたのかもしれない。けれど、男の腕の力は簡単に振り解けるものではなかった。 「少し、疲れただけだよ」 声も身体も震えているのに、彼女は強がりを言い続ける。 「色々な事があって、少し嫌になっちゃっただけ……」 強く目を閉じて言う様は、まるで痛みを堪えているようで。 「言ってしまいなさい」 丸みのなくなってきた少女の両頬に手を添え、視線を逸らさないままヤム・クーは言う。ナナミは嫌々をする子供のように首を振ろうとするが、それは男が許さない。 「……リオウもあの子もへとへと。誰よりも大事なお互いと戦って、二人共ぼろぼろ」 何も、誰も見ない、目の前にいるヤム・クーさえ映さない瞳。 彼女が見るのは、たったひとつ。 大切な"弟達"だけ。 「諦めちゃってるの。あの子達は、あの子達が一番願ってるのに、諦めてるの!」 いつか三人で前のように笑う事。 ナナミだけが、ずっと変わらずに心の奥底で持ち続ける願い。 「……信じて、待ち続けるのはとっても辛い事なんだねぇ…………」 ぽろぽろと零れる涙が痛かった。 この少女は、こんなにも静かに泣くのだと初めて知った。 「お泣きなさい」 そっと、ヤム・クーは呟く。 「ナナミさんが後で悔やむだろう弱音は、みんなあっしが飲み込んじまいます」 だから思い切り泣きなさい、と白髪の漁師はひっそり続け、苦しげに息と言葉を吐き出す少女の唇に己のそれを重ねた。 初めての口付けは、水の匂いがした―――――。 |