『消えよ、娘』
 闇の中、責めたてるように響く声。
『邪魔だ。邪魔だ。邪魔だ!』
 声自体に力があるかのように、一言ずつ身体に凄まじい圧力を受けたように感じた。
『我等の邪魔をするな!!』
 夢からの覚醒は、救いの手だった。


夢現(ゆめうつつ)



「――――っ!!」
「!?」
 突然、何の前触れも無く飛び起きたナナミに、交代制の火の番兼見張り番をしていたエンリは思わず棍を構えていた。
 いささか驚いたものの、そういう起き方を見るのが初めてなわけでは無いし、自分も覚えが無いわけではない。警戒を解いたエンリは、肩で息をするナナミをじっと見た。
 彼女は少し時間が掛かったもののどうにか息を整え、ようやくリオウの視線に気付いて顔を上げる。
 炎に照らされる少年の顔にある心配と怪訝そうな色を見て取ったのか、今にも倒れそうによろつきながら立ち上がり、ふらふらした足取りで歩いてきた。
 後2、3歩というところで、ナナミは足の力が急に抜けたように座り込む。倒れるかと思って手を伸ばしたエンリの腕に、上手い事収まった。
「ナナミ……!? 真っ青じゃないか!!」
 まだ寝ている仲間達を気遣って声は小さかったものの、彼にしては珍しく急いた口調で言った。
 それもそのはず、ナナミの顔はよほどひどい貧血でもこうはならないほど青く、唇など紫色である。常は強い光がある夜色の瞳は虚ろだった。
 跳ね起きる程の悪夢を見たのだろうとはいえ、これは尋常ではない。
 寒気を感じているのか、少女の華奢な身体は小刻みに震えており、エンリは自分の身体に巻いていた毛布で彼女を包んだ。
「あ……ごめん、なさい」
 毛布に移ったエンリの温もりで少し我に返ったのか、ナナミが不自然に途切れた調子で謝ってくる。
「いいから」
 ぞっとするほど冷たい手を握って温めながら苛立たしげに答えたエンリは、なぜ自分が苛ついているのか分からなかった。
 右手に宿る紋章が、ちりちりと疼く。
 死を側に感じて、魂を喰わせろと暴れる時に似ていた。
 いまだ光を取り戻さないナナミの双眸が、火から一番近い場所で横になっている義弟(おとうと)をぼうっと見た。
 エンリの記憶にある限り、義弟思いの彼女がこんな目で彼を見た事など無い。そこらに転がる石を見るよりも冷たい視線に、エンリの背筋に寒気が走った。
「エンリさん」
 声をかけようとしていたエンリよりも先に、義弟から視線を外さないままのナナミが口を開いた。
「変な事を聞きます。
 紋章の声を聞いた事はありますか? いえ……真の紋章に意思はありますか?」
 思いがけない事を言われ、真の紋章保持者は表面上は変わりなく内心でギクリとした。
 そして、気付く。
 ナナミの目が、義弟ではなく義弟の右手――右手に宿っているものを見ている事に。
「……声は聞いた事はない。でも、意思はあると思う。僕は時折感じる」
 エンリの言葉にナナミはすうっと目を細め、少年は、夜の闇に光が灯る瞬間を見た。
 先程まで幽鬼のようであった少女は、もう眩しいばかりの生命力を取り戻している。何が彼女に力を取り戻させたのか、エンリには見当もつかなかった。
「なぜ、そんな事を聞くんだい?」
 温もりを与えるために握っていた手に、力が入る。
 もしかしたら、少女には痛いかもしれないぐらいの力。そう気付きはしたが、エンリは手加減する事が出来ない。
 妙な予感――悪い予感がする。
 顔はまだ白いまま、ただ強い光を取り戻した少女は、ゆっくりと首を巡らした。
「夢を見たんです」
「夢?」
「そう。紋章がね、警告しに来る夢です」
 今度こそ、エンリは驚きのあまり身体を硬直させた。
「たぶん、あの子達の剣と盾の紋章でしょう」
 追及の言葉はいくらでもあったが、エンリは何も言わずにゴクリと喉を鳴らす。
 そういった全ての質問は無意味だと、右手の紋章が教えていた。
「何て、言ってたの?」
 だから、彼が言ったのはそれだけだった。
 エンリの動揺を見透かすように深い眼差しになったナナミは、今度は夜空の星を見た。
「邪魔をするな、と」
 それは、この戦いに少なからず紋章が影響しているのだと語っている。
 同時に、世界を滅ぼす事さえ可能な紋章が、たった一人の少女を危険視しているという事も意味していた。
 かつて軍を率いた英雄の、聡明な頭脳がめまぐるしく動き出す。ナナミの身に起こった出来事は、彼をそうさせるに足りる程のものだった。
 胸の奥に抱えている様々なものが、溢れるように流れ出す。

「―――馬鹿ねぇ」
 刹那の間に膨大な思考に没頭していたエンリは、嘲笑うかのような声に我に返った。
 声の主たる少女を見れば、くっ、とその唇が笑みの形を作る。
 初めて見る顔のナナミに、エンリは頭が冷やされていくのに気付いた。視線で促せば、赤く燃える星を睨むように見詰める少女が続きを語る。
「自分達が喧嘩を売った人間が誰なのか、あいつらは知らないのね」
 その横顔にあるのは、身の凍るような美しさ。
「私は、"ナナミ"よ」
 ゲンカクの娘にしてリオウの姉、ジョウイの幼馴染みで、何より"ナナミ"だとその顔は語り、無力でありながら誰もが無視出来ない力を持つ娘は、確固たるものに裏付けされた顔で言い切った。
「『売られた喧嘩は買い叩け、買った以上は絶対負けるな』の私に、良い度胸だわ」
 冷笑するナナミに、出奔した今でも心から仕えてくれる者を持つ元解放軍の主は心から敬服した。
 言うは易し、とも取れるが、少なくとも発言した彼女を目の前で見たエンリはそう思わない。もしそうでも、相手は世界の始まりを作ったと言われる、想像を絶する力を有した紋章なのだから、素晴らしい胆力だろう。
 元赤月帝国の貴族嫡男は包み込むように握っていた少女の手を放し、淑女にするように恭しく、彼女の細い指に口付けた。
 途端にナナミの顔が真っ赤になるが、エンリはお構いなしに続ける。
「素晴らしき発言に敬意を」
 太陽と夜の色の瞳が、相容れないはずの互いを見詰める。
 エンリの右手から光が飛び出し、ナナミを包んだ。
「素晴らしき君に祝福を」
「―――嬉しいけど、いらないわ。あいつらと同じものの紋章の祝福なんて」
 わたわたと動揺していたナナミは、二つ目のエンリの祝辞に反応して先程と同じ顔に戻る。少年は苦笑し、それに従って紋章の光も途絶えた。
「祈るなら、あなたが祈って」
「確かに」
 失礼、と軽い調子を装いながらその実真剣な目をして、エンリはナナミの小さな、けれど武器を持つ者特有の堅い爪に唇を落とす。
「素晴らしき君に祝福を。
 君が君である限り、エンリ・マクドールは――トランの殺戮者は味方につくだろう」
 英雄と、人々に謳われる男は言う。
 彼の自虐的ですらある物言いにナナミは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに平静に戻って言った。
「最高に心強い味方ですね」
 嫌味でも皮肉でも無い、ただ思った事を素直に言っただけなのは表情から分かる。
 面白くて、おかしくて、エンリは笑った。
 久しぶりの、心からの―多少は歪んでいたが―笑いだった。

 しばらく笑い続けたエンリは、笑っている間も放さないままだったナナミに、いつもの綺麗な笑顔を向けた。
「君が勝つのを楽しみにしているよ」
 人が、人の意思が、心が、紋章に打ち勝つのを。
 わずかな己の希望を混ぜて。
「だから僕は、しばらく君を見ていよう」
 冥府の覇王は目を眇め、対する少女は挑発的に笑む。
「どうぞ、ご存分に」
 無力なはずの娘は、エンリが今まで見た誰よりも何よりも強い顔をして言った。




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