刻々と色を変える太陽の光が窓辺から差し込む。
 夕陽に全身を染められて、少女はあどけない顔で眠っていた。

逢魔が時



 人の多い城とはいえ、人があまり利用しない通路や場所はある。
 なぜ使われないのかはそれぞれ理由があるらしいが、物好き達はむしろ積極的にそちらに足を運ぶ。
 ザムザもまた、その一人だった。
 こういったところに来る者の顔ぶれはほぼ決まっており、彼等はお互いに干渉を好まず、言葉も無くすれ違う。同じ空間にいても会話も無い。
 同盟軍の城は活気溢れているが、目を転じてみればこういう部分もまた存在するのだ。
 ふとザムザは、明らかに人が来ない場所に類されるエレベーターの通じていない上階から湖を見たくなった。
 夕餉の支度に女達が忙しい今の時刻、オレンジや茜、赤からワインへと色を転じる太陽と湖が見えるからだ。
 廊下の最奥にある大窓。
 極上の美が見える特等席は、小さな人影が座っていた。
 窓から眩しい陽が入ってきて逆光なので、詳しい事は良く分からない。ただザムザには、自分だけの場所が他人に占領されている不快感がこみ上げ、知らず顔を顰める。
 窓枠に座る人間がいれば、ザムザが望むものを楽しめない。
 睨んでどかせようと自分勝手な事を考えた彼は、歩くスピードを落とさなかった。

「……何をやっているのだ、この馬鹿娘は」
 すぐに窓まで辿り着いたザムザは、人影が誰かを突き止めてついそう漏らす。
 窓枠に座り、ガラスに凭れて眠っていたのは、彼が同盟軍入りする事の発端になった娘だった。
 膝の上にはそれなりに厚い本が乗っており、ページが時折パラパラと音を立てて捲れる。
 書かれている文字はこの同盟国共用語ではなく、またハイランド語でもない。どこかで見た事があるような気もするが、ザムザには読めない代物だった。
 少女がこの本を持っていると言う事は、当然彼女はこの言語を読み解くのだろう。思っていたより馬鹿ではないのか、と魔法使いは少し感心した。
「ん……」
 笑顔の絶えない少女だが、表情のない寝顔は少し彼女を大人びて見せる。むしろ、こちらの方がナナミという娘の本質に近いのではないか、とザムザは漠然と思った。
 ほとんど知られていない、少女の将としての才。戦いの技術。ぞっとするほどの冷静さを、ついこの間極秘任務で彼女の補佐を務めた彼は知っている。
 軍主の義姉(あね)でこそあるが、目立つのは戦闘力だけだというのが両軍の認識で、あの軍師はそれを上手く利用し、ナナミを巧みに使う。ナナミも承知しているのか、何を言うでもなく従って密かに戦果をあげる。
 それを知ったザムザは、ナナミを「軍師の懐刀(ふところがたな)」などと称したものだ。

 ザムザの短い思考の間も、太陽はじりじりと動いている。自分の目の保養の為に少女を起こそうとザムザが手を延ばした刹那、ナナミの身体が震えた。
震え方から、寒いのだと察せられる。秋深い今の季節、夕方にもなると一枚羽織らないと肌寒い。いくら太陽の恩恵があるこの場所とはいえ、彼女の薄着では震えもこよう。
「おい」
 あの任務の中は、少しでも人が自分に近付けば目を覚ましたと言うのに、今のナナミは小さく声をかけても起きない。
「おい、起きろ」
 今度は先程よりも強めに声をかけると、ナナミが突然ぱっちりと目を開けた。あまりに不自然な目を覚まし方に、サムザが片眉を上げる。
 焦点の合わない瞳のまま、彼女は一筋の涙を零した。
「な……」
 さすがのザムザも、全てが不可解過ぎて驚愕の声を発してしまう。そんなザムザに気が付かないのか、ナナミは小刻みに身体を震わせる。
 はらはらと、花びらのように流れ落ちていく透明の雫。
 普段騒がしいぐらい元気な少女が、音もなく泣く姿はとても意外だった。
「泣いてる……」
 声はか細かった。
「あの子が、泣いてる……っ」
 続いて紡がれた名前は、この城では禁忌に等しい彼の皇王のもの。
 血を吐くような叫びに近い口調は、ザムザの胸にも小さな痛みをもたらす。
「―――馬鹿者、目を覚まさんか」
 胸の疼きを押し殺し、ザムザは相応の力を入れてナナミの頭をはたいた。
 その衝撃でナナミの膝から本が落ち、バサバサと耳障りな音を立てる。
「……あ……」
 ようやく焦点のハッキリした瞳で、ナナミがザムザを見上げる。その顔の無垢さに男の嗜虐心がひどくそそられたが、そこは年の功でぐっと押さえた。
「気が付いたか」
 この男特有の冷めた目で見下ろされ、ようやく彼女は意識を現実に戻す。
「わた、し……」
「何だ。まだ目を覚まさないのか?」
 もう一度手を振り上げたザムザに、ナナミはぎょっとして立ち上がった。
「起きているではないか。私に手間をかけさせるな」
「あの子! あの子が泣いてる!!」
「……まだ気が付かないか」
 自分を抱くように腕を回して、ナナミは真っ青な顔をして同じ言葉を繰り返す。うんざり顔のザムザは、一瞬の迷いも無くナナミの頬を打ち据えた。
「…………痛い」
「当たり前だ。痛くなるよう叩いたんだからな」
「何するのよ」
 涙に濡れたままの瞳が、恨みがましそうに見詰めてくる。ここではないところを見ない、自分だけを映す瞳にザムザは満足した。
「お前が変な事を言うからだろうが。覚えていないのか?」
「……覚えてる」
「顔を拭け」
 あまりに見苦しいのでそう言ってやれば、ナナミはのろのろと手持ちのハンカチで頬を拭う。

 気付けば、窓の外には見事な赤に染まった太陽。
 小さな少女を包み込み、真っ赤に染め上げる。まるで、全身が血に塗れたかのようだ。
「……お前の幼馴染みとやらが今どうしているかなど、お前に分かるはずがなかろう」
 ザムザがそんな事を口にしたのは、気紛れだった。
「うん……」
「お前が見たのは、お前の思い込み。愚かしい幻想だ」
「…………うん」
 止まった涙が、また流れ始めた。
 俯いた少女の瞳から、真っ直ぐに床に落ちていく。
 ポタリ、ポタリと。
 石の床に染みを作っていく雫はただの液体だ。それなのに、なぜ息が詰まるのだろう。
「ほら、来い」
 仕方なく、仕方なくザムザは腕を開いてナナミを促した。途端、崩れるように男の胸にもたれかかった少女は咽び泣く。
 簡単に抱き締められる小ささに、胸が締め付けられた。
 気紛れだ――そう自分に言い聞かせ、ザムザはようやく見られた絶景に見入る。今までで一番美しいように感じるが、逆に最も醜いような気もした。
 だが、この夕焼けを忘れないだろうと思った。
 小動物のように震える少女を、抱き締めながら見たこの夕焼けを。

 落ちた本が開いていたページは、今ザムザが見ている光景と似た絵が描かれていた。
 その絵の下には、異国の言葉で「逢魔が時」と記されていた。





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