06




「迷惑をかけてごめんなさいね、京子ちゃん」
 子供達の保護者の女はタクシーの中から詫びる。
 京子が携帯電話で連絡を取った彼女は、走り回った子供達が疲れて眠ってしまったと聞かされてすぐに駆けつけてきた。
 本当は気絶した子供達は座席ですやすやと眠っている。
「いえ、全然。私こそごめんなさい。せっかく誘ってくれたのに」
「良いのよ。お友達と会えて良かったわね。せっかくなんだからお喋りしてらっしゃい」
 視線を向けてきた彼女に、久々に会った友達と紹介された骸は目礼する。手にはナイフを持ち、京子の背にひたと添わせていた。
「少し元気になったかしら? また家に遊びに来てちょうだいな」
「はい。ありがとうございます」
 京子が軽く頭を下げて会話が終わり、保護者の女は待ちくたびれている運転手に声をかけ、車は排気ガスを放出しながら去っていった。
 完全に車の姿が見えなくなったところで、京子の身体に張っていた緊張が抜ける。
「そんなもので脅さなくても、私は何も言いませんよ?」
 少女はナイフが刺さった箇所を手で押さえつつ、少年に苦笑する。
 京子が言った事を考えていたわけではないが、逃げられたくはなかった。
「ああ。何となく」
 言葉通り、自分でも驚くが半ば無意識の行動だった。
 折り畳み式のアーミーナイフをパチンとしまい、今にも倒れそうな少女の腕を掴んだ。まだ彼女を帰すつもりはない。
「骸さん?」
「先程の方は誤魔化せても、僕には通用しませんよ。
 紺のベストで目立っていませんけど、その傷、結構血が流れているでしょう」
 京子は無言。イコール肯定だった。
 軽く息をついて、立っているのも辛そうな少女を抱き上げる。左腕に半ば座らせながら荷物のように肩に担いで、自分の周囲に幻術を張った。
 こんな姿を他人に見られたら、骸は憤死したくなる。
 自分は何をやっているのだろう。自問しても答えは中から戻ってこない。
「僕のマンションが近いので、そこへ」
 具体的な行動を示したら安心したのか、京子の四肢から力が抜ける。
 軽いとも重いとも感じる身体を、そうと丁重に運んだ。


 借りたての家具付きマンションは、適当にマインドコントロールした人間に掃除させた為綺麗に整っている。
 唯一運び入れさせた寝具―ベッドに置いただけだが―の上に京子を降ろし、購入品を床に放り投げた骸はバスルームへと向かう。
 洗面器を手に取って引き返すと、キッチンの蛇口を捻ってぬるま湯を溜める。背後から、京子が電話している声が聞こえた。
「うん。ごめん、花。―――ありがとう。よろしくね」
 会話は一度切れ、しばしの間を置いてまた少女の声が耳に届く。 「お母さん? 京子。ごめん。連絡しなくて。今日、ちょっと花の家に泊まるから。なんか相談があるんだって。
 ね、お願い? お母さんなら分かってくれるでしょ?
 ……ありがと。うん。明日はちゃんと帰るから。
 おやすみなさい」
 家への電話だろうそれが終わるのを見計らい、ベッドへと戻った。
「京子?」
「はい……」
 聞こえていた声は元気そうだったが、実際は倒れてこそいないもののぐったりと頭を落としている。
 それでも呼びかけには反応し、顔を上げた。―――血色が悪い。骸の眉が寄る。
「脱ぎなさい」
「え」
「傷の手当をするんですから、脱がなければ出来ないでしょう」
「あ、そう、でした」
 頷いてのろのろとニットの裾に手をかけ、脱いでいく。傷が痛むのか動作は遅く、一枚脱ぐだけで何分もかかった。これでは、治療が終わるまでどれくらいの時間がかかる事か。少年はうんざりして、京子のシャツに手をかけた。
「えっ!?」
「君は何もしなくて良いです。座っていなさい」
 恥ずかしいのか顔を赤くしたが、慣れない外傷に動くのが辛いのだろう。思いの他素直にこちらの言葉に従い、骸に身を任せた。
 シャツのボタンを外し、完全に脱がす。黒いスカートに手を掛けたところでさすがに抵抗があったが、あっさりと抑えこんで布を取り払って床に投げ捨てた。
 臍よりやや左にずれた位置の傷では、血濡れたシャツもスカートも邪魔だ。
 桃色の上下揃いの下着と学校指定らしい紺色の靴下だけの姿にして、ベッドにその身体を横たえる。
 持ってきた洗面器のぬるま湯にタオルを浸して絞り、やや乾き始めている傷口に当てると、ビクリと背を反らせて反応した。
「っ……」
「これなら縫わなくても大丈夫でしょう」
 刃は綺麗に体内に入ったが、その後に骸が傷口を開いたせいでもしかしたら傷跡が残るかもしれない。
 痛む胸はない。残れば良いとすら、少年は思う。身体に傷が在り続ければ、それは今日の事を決して忘れさせまい。
 骸の中の何かを爽快なまでに壊したのだ。忘却するなんて許さない。
 濡れタオルでこびりついた血を落として、ついさっき購入した消毒液やカーゼをビニール袋から取り出す。そこでようやく、骸は京子が両手で口元を押さえて声を殺している事に気付いた。
「京子?」
 目尻から涙を零し、きつく目を瞑っている彼女は、明らかに痛みに耐えようとしている表情で。骸にとっては掠り傷に等しい裂傷が、この小さな少女にはひどい痛みをもたらすものなのだと理解する。
「歯を食いしばっては駄目ですよ。奥歯が砕けます」
「だって……」
「これを噛んでなさい。すぐに終わります」
 自分の制服を脱ぎ、彼女が気にしている下着姿を隠しつつ、肩の部分が口元に当たるようかけてやる。
「手持ちのタオルはもうないので、それで我慢してください」
「そ、それなら私、自分のスカートに入ってるハンカチを……」
「君のスカートは血だらけですよ。良いから噛んでなさい」
 まだ何か言おうとする彼女の口に無理矢理を押し込んで、消毒液をかけたガーゼを傷口に滑らせる。
 途端、細い足が跳ねた。むぐ、などという変な声もする。買った消毒液はエタノールだったので、沁みたのだろう。
 ガーゼで傷口を拭う度にビクビクと震える下肢を視界に入れつつ、今度は軟膏をビニール袋から取り出した。自分達の怪我の時の為に買ってきたものが、まさか殺したいと思っていた人間の傷を手当する事に使用する事になるとは。
 性欲処理の為でなく、こんな少女の肌に触れたのは初めてかもしれない。
 そんな自分と、滑らかな肌に感動と興奮を覚えながら、京子の傷に軟膏を塗りたくる。過敏な反応がいっそ楽しい。
「あ、む……」
 軟膏まみれになった指を、ガーゼの切れ端で拭い、大きめにカットした清潔なガーゼを傷口の上にあてがった。
 純粋な白が、肌の白さの上に重なる。同じ白でも違うのかと感想を抱きながら、医療用テープでガーゼを固定した。
「数日すれば塞がるでしょう」
 ぐったりとベッドに沈む京子に加害者が伝え、少女が動かないことを良い事に、骸は違う行動を開始した。
 残しておいたタオルを、先程血を拭ったタオル同様ぬるま湯に濡らして絞り、骸の学ランを掴んだままの京子の右腕を取って、拭く。
「むくろ、さん?」
「ついでですから、身体も拭いてあげますよ。擦り傷も出来てますし、汚れてますから」
「誰のせいですか」
「僕のせいですね」
 半眼で睨んできた京子にしれっと返答した。
 そんな男に情を傾けたのは彼女だ。そう思うと、なんだか笑えてきた。この感情はなんというのだろう。むず痒い。
 右腕から首元、左腕。顔や髪と順々に清めて、胴体には触らず右足首を掴んだ。
「小さいですね」
 膝を軽く折り曲げて靴下を脱がせ、爪先から足の付け根までタオルを滑らす。
 まさか自分が女の世話をするなんて、想像も出来なかった。
 こんな容易く壊せそうな存在が自分の術を破るとは。
「殺したくなります」
 囁いて、右足同様素足にした左足を手にとって小さな爪に口付ける。
「きゃっ。な、何するんですか!」
「何って……まさか、本当に治療するだけだと思ったんですか?」
 呆れを通り越して尊敬すら抱く鈍感さだ。
 京子に触れられてから、骸は彼女が欲しかったというのに。
 それだけを目的に甲斐甲斐しく手当てをしていた訳ではなかったけれど、多少の下心があった事は否定しない。
「嫌だと言っても止めませんよ?」
 そこだけは釘を刺しておく。
 骸の中で、京子を手に入れる事は既に決定事項だ。
 少女が学ランから手を離し、少年の方へと伸ばす。求められるまま、骸は上半身を傾けてその腕に抱かれてやった。
 温かい。
「私は……あなたに、優しくしたい」
 か細くも確かに。
 何かが溢れる言葉が骸の耳朶を擽った。

 少年の知らない"何か"。
 温かく、やわらかく。
 それなのに、身を焦がすような烈しさが、どこかに潜んでいる気がして。
 死んでも口にしないけれど――――これを" "と。
 そう、呼ぶのだろうか。





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