09 起きたのは骸の方が早かった。 目の前にあったまろやかなふくらみに一瞬驚き、すぐに状況を理解する。本当にあのまま熟睡したらしい。そんな自分が信じられないが現実だ。 キスマークが残る胸に軽く口付けて、視線をずらす。 寝る前についていた電気は京子が消したのか、まだ辺りは薄暗い。闇の濃さと体内時計の感覚から、恐らく夜明け直前といったところか。 骸は身を起こし、昨夜投げ捨てた制服から携帯電話を取り出す。一緒に出てきた煙草に手をつける気にはならなかった。 「ん……」 ずっと寄り添っていた体温が離れたのを感じたらしい京子の手に指を絡ませ、頭があぐらをかく骸の足につくよう移動する。 自分も随分おかしくなったものだ。 これ以上自分が壊れる前に、早急に事を実行しよう。 知ったものがあったとしても、ここで野望を捨てるようならばそれは六道骸ではない。 無防備に眠る京子に視線を落とす。 この女は骸の事を知り過ぎた。殺すか、記憶を消さなければ、と半ば習性にも似た無意識で手が伸びる。 滑らかな頬に触れた指先にかかる、規則正しい寝息。小さく開いた唇が骸を誘う。 動いたのは手ではなく身体。 誘惑に負けて、少年は少女の唇を吸っていた。 出来ない。 それだけが骸の中で響いて、縛る。 「何て、事だ」 自分を嘲笑いたいのに、それすら上手くいかない。 途方にくれた骸がぼんやりとしていると、チカ、と光が部屋に入り込む。 朝日――日の出の時間だ。 部屋はマンションの最上階で東向きだったらしい上、カーテンも閉めていないせいで直に朝陽が差し込んでいた。 「ああ…………」 昇る黄金の朝日。 ゆるやかに、空気がやわらかく変じていく。 この醜い世界を、一瞬でも美しいと思った。 否、世界がどれほど醜悪でも、汚くても、この女が愛してくれるならばそれで良いと、刹那でも―――思ってしまった。 わずかな衣擦れの音と共に学ランを羽織り、骸は着替えを終了する。 自分の準備が完了したのを確認して、ベッドを振り返った。 「……う、ん……」 シーツに包まって眠る京子を見下ろす。 息の根は止めず、記憶も消さないままにして、骸は京子を置いていく。 駄目にした服は全て準備してやった。目覚めたら欲するだろう水も、書置きまで用意した。 だがそんなものは、起きた京子に与えるだろう衝撃を和らげる事はしないだろう。 死んでも形にしないと思った言葉が、するりと骸の中から落ちた。 「Amore mio」(愛する人) 認めたくはなかった感情。 これが最初で最後だと言い聞かせて、口にする。 「Ti amo」(愛しています) これから、彼女の縁者を害していく。 情の深いこの女は、それを許しはしないだろう。 もし京子が全てを知ったら、今度こそ憎悪を向けてくるかもしれない。それこそが望みだったはずなのに心臓が痛むなんて、どれだけ自分は変わったのか。 ふわふわとした髪を梳く。 「ん、ふふ」 幸せそうに笑む京子につられて口角を上げた骸は、彼女の頭を腕に抱えこんで唇を奪った。 キスとは、なんて甘美で心震える行為だったのだろう。 これで、最後だ。 未練がましく自分が吸ったせいで赤くなった京子の唇を舌先で舐める。ベッドから離れようとして、うっすらと開いた瞼に気付いてギクリとした。 「む、くろ、さん。おで、かけ……ですか?」 「…………ええ。少し」 「そうですか」 ふにゃりと笑う少女は夢現らしく、何度も瞬きを繰り返す。会話に満足すればまた眠るだろう。骸は平静さを苦労して装い、話を続ける。 「いって……らっしゃい。まってますね」 「待たなくても、良いですよ」 「だめ、です。だって、かえってきたらまず、いままでのことを、おこらなくちゃ。 そうしたらつぎは、ぎゅうってして、たのしいことをして。いっぱい……いっぱい……あなた、に……」 言葉半ばで、京子は予想通り眠りに戻っていった。 もう捕まってはならないと、やや急いてベッドから離れる。そうしなければ立てなくなりそうだった。 外へ通じる扉の前で深く息を吸い、吐く。 この部屋は母親の胎の中。温かな羊水に満ち、骸を包みこむ。 だから少年は出て行く。後ろ髪を引かれていても、振り返らずに。 「――――――Addio」(さようなら) 骸が築きたい世界に、あんな娘は生きていないだろう。 携帯電話を取り出し、コールする。相手はすぐに出た。 『はい』 「ああ。僕です。無断で帰らずすみませんね」 『いえ。ご無事ならそれで』 普段感情の出ない千種の答えが、わずかに安堵交じりなのが分かった。 闇に生き、追われている身の上である骸達は、連絡にはそれなりに気を使う。突如音信不通となれば、追跡者の存在を疑い、行動を考えなくてはならないからだ。 「早速ですが、君達に動いてもらいます」 『――分かりました。犬にも伝えます』 回線の向こうの空気がわずかに揺らいだのを感じたが、すぐさま了承の答えが返ってくる。骸は口の端を上げ、続けた。 「お願いします。ボンゴレを炙り出してください」 『はい。――ところで、骸様』 「何です」 『どこかお怪我でも?』 「いいえ。いたって無傷ですが?」 『そうですか……あなたにしては珍しく呼吸音が聞こえたので、もしやと思いまして』 では始めます、と言って千種は電話を切る。 ツーツーという電子音を聞きながら、骸は自分の口元に手を当てた。 電話の向こうの人間から指摘を受けるのが理解出来るぐらい、確かに呼吸が早い。まるで全力で戦闘した後のようだ。 あの部屋からはただゆっくりと歩いて来た。なぜ、自分の息は乱れているのだろうか。 理由が分からずに、骸は顔を上げる。 アジトへの道のりは東方向。 先程見た黄金の朝日は今、赤へと色を変えてやはり少年の前にある。 まだ眠る街を染めるその色は。 あの日の夕焼けと同じ。あの女の傷から流れたものと同じ。あの女が自分を受け入れた証と同じ。 骸の手を染めるものと、同じ。 「――――――Il sole mio」(僕の、太陽) 呟きが、空気に溶ける。 脳裏に鮮やかに浮かび、ほどけるように消えていく姿に瞼を閉じて。 目を開けても消えない彼女の存在――自身からかすかに香る移り香を振り払うように、時折美しく見えるようになってしまった光の中を歩き出した。
朝の空気に、少年の物悲しいイタリア語の旋律が寄り添っていた。 end.
*作中引用:『Volevo un gatto nero』 http://www.operapec.sakura.ne.jp/operapec/stellata_nero.htm←歌詞を参考にさせて頂きました SPECIAL THANK YOU
青井しずか 様 |