この手が、撃ったもの。 別れの夜 随分前に教わった、もはや空で言えるパスワードを入力して、この艦唯一の女性パイロットの部屋に入室する。 窓のない部屋だというのに、照明の一つも点けられていない。 視界ゼロに等しい真っ暗な室内で、レイは勝手知ったる他人の部屋、と照明のスイッチを押す。 わずかの停滞もなく点灯した証明は、部屋の主を鮮明に照らす。 数時間で、あまりにも小さくなってしまった彼女を。 アスラン・ザラの脱走に、メイリン・ホークが手を貸した。 脱走を阻もうとしたレイが彼等を撃ち、結果として、アスランは辛くも逃走。後には、銃弾に倒れた少女の亡骸が残された。 最後まで――もう死んだ彼女さえ連れて行こうとしたフェイスは、いくつもの傷を負ってついに断念し、闇夜に消え。 共犯者メイリン・ホークの姉ルナマリア・ホークには、参考聴取と事情説明の為に出頭命令が下された。 あまりにも衝撃的であっただろう一連の事柄が、生気溢れるルナマリアを、精巧な人形めいた存在へと化していた。 メイリンの裏切り行為と、死。 そして、彼女の大切な妹を殺したのは、恋人である男であった。 「ルナマリア」 入室した自分に顔を向けず、それどころか反応すらしない彼女の名を呼ぶ。 予想していたような激しい拒絶や、憎悪の言葉がない事に、逆に恐れを覚えた。 なぜ彼女は、何も言わない。 あんなにも大事だと言っていた妹を殺した男を、前にして。 恐る恐る、レイはルナマリアへ近付いていく。 彼はベッドに座る彼女の前に膝をつき、俯いている顔を下から覗き込んだ。 「――っ!」 息を、呑む。 そこにあったのはまさしく人形の顔。 アメジストの瞳に、あの炎のような輝きはなく。 ころころと感情が浮かぶはずの面に、表情はない。 こんなルナマリアを、レイは知らない。 いつだって気持ちを、考えを、真正面からまっすぐにぶつけてくる彼女が、何の返事もしない。 駆け抜ける戦慄に、少年は戦慄いた。 自分がした事の重さを、ひしひしと実感する。 ―――だが、それでも。 レイは己の行動を悔やまず、正しいと言う事が出来るのだ。 「ルナマリア」 許しを請う罪人の如く―きっとそれは事実だろう―、彼は彼女の頬に震える手を伸ばす。 触れた箇所は、いつもの温かさを有してはおらず、それが益々レイを追い詰めて。 少年は、触れてはいけないものに触れるかのようにそっと、唇を重ね合わせた。 何でも良い。 ルナマリアの反応が欲しい。 泣きたいような気持ちで願っているのに、考えついて、やる事がこれしかないとは情けないにも程があるだろう。 肌蹴られた少女の軍服。 首に、鎖骨に、腕に、赤い印が刻まれる。 普段ならば甘く鳴いて応えてくれるはずの彼女は、押し倒された時のままぴくりとも動かない。 呼吸さえもどこか長い間隔のせいで、まるで人形と相手にしているようだ、と、初めて苦いと感じる恋人の唇を貪りながらレイは思った。 なんの応えもないキスをやめ、邪魔な軍服を剥いでしまおうと手を伸ばす。 と。 「ねえ」 そこへ滑り込んだ呼びかけ。 ハッとしたレイが彼女の顔を見ると、ガラスの双眸に、ほんのわずかな光が灯っていた。 ゆっくりとルナマリアは起き上がり、気圧されて身を引いたレイを見詰める。 「どうして?」 抑揚のない口調とは裏腹に、その瞳からはらはらと涙が零れた。 脱走は重罪だ、という正論は口を出ていかない。 そんな事は彼女だって分かっていて、それでもなお、問いは繰り出された。 求められているのは、誰もが納得せざるを得ない理由ではなく。 涙し、"軍人としてではない答え"を待つルナマリアにかける言葉など、彼にありはしない。 彼女の妹と撃ったのは自分だから。 涙の原因を作ったのは自分だから。 「ねぇ……私が、同じように議長を裏切ったら、レイは私を撃つの?」 耳が、彼女があるのだと教えてくれた心が、痛い。 『そんなことはない』。 そんな簡単な事さえも、言えない自分がいる。 返事をしない彼から、彼女は答えを察したらしい。 スゥっと表情を消して、さきほどまでの"お人形"に戻ってしまった。 「ルナマリア……ッ……!」 レイは知る。 この瞬間、手放したものを。 育て親の為に在るこの血塗れた手が、奇跡のように掴んでいた大切なもの。 胸を貫く痛みは鋭いというのに、彼の双眸から流れるものはなかった。 拒みもせず受け入れもしない身体を、丹念かつ執拗にほぐして、その中に入り込む。 さすがにそこまでされれば、彼女の肢体も鈍い反応を返した。 「あ、う……っ」 何度こうして肌を重ねただろう。 この世に、こんなにも温かなものがあるのと、彼はルナマリアから知った。 知り尽くしているはずの、しなやかな身体。 だが、握り締めても握り返されぬ手が、応じようとしない腰が、足が、レイの焦りを助長する。 ひとつになっているという恍惚感はいつまでも訪れず、見当違いの場所を突いていると感じれば、それはすぐに苦痛の悲鳴で示される。 「痛っ」 少年はぎく、と身を震わせて、やっとの事で叶った行為を早々と終わらせた。 表情の消した時と同じ速さで、あっさりと眠りについたルナマリアを眺めながら、レイは乱れた軍服を直していく。 さしもの彼も、今日は彼女を抱いて眠れる神経を持っていなかった。 襟を正す己の手を掲げて、まじまじと見る。 "彼"の為に出来る事がある手は、存在理由を証明するかのように敵を屠り、メイリンをも撃った。 この手がルナマリアの身体に触れる。 彼女の身に流れている血と、同じ血に濡れている、この手が。 「うっ…………」 胃がひっくり返るような感覚。 吐き気がせりあがってきて、レイは口許を押さえる。 『そんなことはない』。 そう答える事を、躊躇してしまう自分は。 彼女の妹の命を奪った自分は、傍にいて良いのだろうか? もうルナマリアの心は離れてしまったというのに、そんな事を自問する己を嘲笑したレイは、おぼつかない足取りで彼女の部屋を後にする。 出る間際に一度振り返って、死人のように静かに眠る彼女を見遣り――― ひくり、と喉が震えた。 何か言いたかったはずなのに、脳は思考せず、口も動いてはくれず、ただ、吐息で空気が動くだけ。 少年は、ひっそりとその場から消えた。 ―――翌日、ルナマリア・ホークはザフトから姿を消した。 赤服らしく痕跡も残さずに脱走した彼女の恋人の元には、一通のメッセージが残されていた。 『さよなら、レイ。 好きよ。 でも、今まで通りじゃいられないの』 これを見た彼の頬には、伝う雫があった。 この手が、撃ったものは。 軍の裏切り者。 彼女の妹。 この、大切な関係そのもの―――――。 |