ふと目を掠めた淡い色彩に、帰室途中のクルーゼは思わず手を使って移動をやめていた。


接触−祈る者−


 機能性を第一に作られ、パステルカラーなどとは縁の無い軍艦の廊下にちらついたのは見覚えのあるピンク色だった。
 もしやと思い進路を変更してそちらへ行ってみれば、そこにはやはり思い描いた通りの人物がいた。
「このようなところで何をしていらっしゃいます」
 運行に直接関わりの無い区画の為、明かりは非常灯しかない付近一帯で、ラクスは一人立っていた。
「まあ、ラウ・ル・クルーゼ隊長」
 声をかけられてもさほど驚かず、彼女はおっとりと応対する。
 先程自分を一喝した毅然とした様子とは全く違い、柔らかな印象を与えた。
「ここは素敵な場所ですわね。まるで星々に抱かれているよう」
 ヴェサリウスは軍艦だが、元々は社会的な地位が高い人物が、危険が高いと予測される際にプラント間を移動するのに使われていた。その為、意味もなく周囲を見渡せる場所があるのだ。
「星を見ていたと?」
 わずかな恒星の光と非常灯の光が、普段スポットライトの中にいるアイドルを照らす。
「そんなところですわ」
 微笑。紛れも無い笑みなのに、背筋がゾクリとした。
「部屋がお気に召しませんでしたか?」
 寒気にも似た感覚は収まらなかったが、それを表に出さずクルーゼは問う。
「いいえ。とても素敵なお部屋でしたわ。
 けれどずっと一人でしょう。ダメですわね、つまらなくなってしまって」
「それで抜け出してきたのですか?」
「お部屋を出る前にわたくしきちんと伺いましたのよ。「お出かけしてもよろしいですか?」と。それも3回も。なのにお返事がありませんでしたから、お部屋を出て参りましたの」
 その言葉に、クルーゼは内心で頭を抱える。本気で言っている辺り始末に悪い。
「あなたは客人ですが、ヴェサリウスは戦艦です。あまり部屋の外をうろうろなさらないで下さい」
 たしなめる言葉だったのだが、ラクスは目を丸くした後くすくすと笑い出した。
まさかこんな反応をされると思っていなかったクルーゼは、一体何なのだと思い尋ねてみた。
「笑われるような事を言ったつもりは無かったのですが?」
「ごもっともですわ、申し訳ありません。
ただ、今のお言葉、アスランにも言われたんですの。それも一字一句違いませんでしたので、上司と部下は仰る事も同じになるのかと、つい……」
 おかしかったのだと、ラクスはまた笑った。
 だがクルーゼは、笑われた事に対するささいな腹立たしさより、既にアスランより同じ事を言われているという部分に着目した。
 つまり、自分と遭遇している今回の前に既に彼女は脱走していたのだ。
 お嬢様に脱走癖があるのかという疑問と、ロックのかかっている部屋からどうやって出てくるのだろうかという疑問が出てきたが、とりあえず彼女を部屋に戻すことが先決だと判断し、策を巡らせる。
 彼女は天然だが、馬鹿ではない。むしろ聡明だ。
 甘やかされて育てられた世間知らずのお姫様だと思っていた彼女は、しかしそうではなかった。
 あの時自分を呼んだその声に、その言い分に、堅い芯が通っていた。
 クルーゼは、自分がとんでもない思い違いをしていたのだと悟らざるを得なかった。
「どうしたら、素直にお部屋に戻り、大人しくしていて頂けますか?」
 分かっているだけで二回の脱走を果たしている少女は、部屋に押し込んだところで再び部屋を出るだろう。ならば、彼女の意思で部屋を出ないようにしてもらうしかない。
 問いはクルーゼの試みだった。
 彼女が言葉の裏に隠す取引に気付くかどうか。
 ラクスはぱちぱちと目をしばたき、それからわずかに俯いて考え込んだ。
「お約束はいつまでですの?」
 答えが返ってきた瞬間、クルーゼは唇に笑みを刻む。自分の思い通りに事が運んだ事が面白くて仕方が無かった。
 プラントのアイドルは、歌うだけの小鳥ではなかった。
「とりあえず、今日一日で構いませんよ」
「まぁ。てっきり帰るまでと言われるのかと思ったのですけれど」
「私はそれでも構わないのですが、それではあまりにあなたの退屈な時間が長すぎるでしょう?」
 思いがけない彼の言葉に、ラクスは首を傾げる。
「ずいぶんお優しいのですね」
「フェミニストなもので」
 いけしゃあしゃあと嘘を言う自分を、クルーゼは何とも思わない。思わなくなった。
 ラクスは何を思ったのか笑むように目を眇め、それからまた少し考え込む。
「歌を……歌を歌わせてください。一曲だけでいいですわ。この場所で、歌わせて下さい」
 述べる声は消え入るように小さく細く、そのくせ断固とした強さがあった。青い瞳に浮かんだ色が何であるか、クルーゼには分からない。
「そのような事でよろしいので?」
「これでも十分わがままな事は自覚しています」
 本来すぐにでも部屋に押し込んでも不思議ではないクルーゼが、あくまでラクス自身の自主的な行動を求めて譲歩している事を、彼女は分かっているようだった。
「分かりました。どうぞご存分に」
「ありがとう」
 クルーゼに承諾され、ラクスは改めて窓に向く。色々な意味で邪魔にならないようにと、少しだけ気を使ってクルーゼは退き、壁に背を預けた。
ラクスは両手を胸で組み合わせ、目を閉じた。

 歌声が軍艦の廊下に響き出す。
 声は軽やかで柔らかく、優しく、光の波のように薄暗いこの場に浸透していく。
 わずかな光が、淡い色彩で彩られる彼女を青緑に染め上げる。
 己の身体の位置さえ気にしていないのか、華奢な身体が宙に浮かぶ。ピンク色の髪は波打って広がり、目を半ば閉じてただただ歌う少女の姿は神秘的というより荘厳だった。

 まるで彼女が光を放っているかのようだった。
 小く、儚く、けれど消えない……そんな、燐光。

 聞いた事の無い歌だった。
 テレビを付けると必ず流れる彼女のヒット曲ではなく、知らない言葉の、独特の調子の美しい歌だった。
 普段音楽に興味を示さないクルーゼも、純粋に良いと思った。
 歌い終えた彼女が実力を兼ね備えてトップスターなのだという事を、彼は初めて理解した。
 手袋をしているせいで音の無い拍手を送りながら、クルーゼは少し息を乱す少女を見やる。男一人しか見ていない軍艦の廊下で、彼女はなぜそこまで真剣に歌うのか皆目見当もつかなかった。
「お見事でした」
「ありがとうございます」
 誇り高い謝辞だった。己の歌に誇りを持っているのだと分かる。
「何という歌なのですか?」
 純粋な興味だった。あまりに珍しい純粋な問いだった。
「祈りの歌―――ですわ」
 青い双眸は、宇宙の彼方を見ているのではないかというぐらいに遠くを見ていた。
「何を思い、祈りという歌を?」
 口から出た言葉は自分ですら思いも寄らぬもので、クルーゼは驚いた。だが言った言葉は消せず、不思議そうに見上げてくるラクスの言葉を待つしかない。
「きっと笑われますわ」
「言いたくないのから構いません」
 自分らしからぬ無意識だったとも言える話を早く終わらせたくて、クルーゼはさっさと言う。ラクスは何とも言えない表情で窓に触れ、広大過ぎる宇宙を見た。
「万人の安らぎを。全ての方が安らかでいられるようにと」
 聖者も死者も。悪人も善人も。大人も子供も。全ての者が安らかであるように。聖母のような表情が語る。
「ご立派な事ですな」
 言葉は隠し切れない嫌悪や軽蔑といった負の感情を持っていた。
戦場で生き、血塗れたクルーゼに、少女の純粋さはあまりに美し過ぎる。
「ただの自己満足でしかありません」
 皮肉は冷然とした言葉に切って捨てられる。
 青い双眸は冷たく冴え渡り、光と闇で彩られる宇宙を見ていた。
「わたくしがどれほど祈ろうとも、何が変わるというわけではないのです。
 けれど、祈る事をやめた時、それは本当の終わりの時です」
 祈る事は期待する事。期待するという事は希望を持つという事。やめた時は、希望を持たなくなった時。
「だからわたくしは祈るのです」
 期待を裏切られるのは辛い。だから人は段々と期待しなくなる。
「だからわたくしは歌うのです」
 歌は祈り。魂の叫び。
 期待し続けられる強さを持つ彼女は、せめて一時でも歌を聞いた人が安らげるように歌う。

 少女の強さが見えない光になって、クルーゼの目を焼いた。


 丁重なエスコートでクルーゼはラクスを部屋に送り、少女は部屋で跳ねて『らくすイタ!らくす!らくす!』と叫ぶ半自立型ロボットに迎えられて入室した。
「お世話をおかけしました、クルーゼ隊長」
 今まで重ねられた小さな手に安堵した事は見ない振りをし、今離れた温もりを追いそうになった手を無理やり押さえ込んだ。
「いえ」
 素っ気無いクルーゼの返事にもラクスは微笑み、周囲を飛び回るロボットを愛しげに見つめる。
 ふと、あの時の通信が耳の奥で木霊した。
『ラウ・ル・クルーゼ隊長』
 コーディネイターに愛される歌姫。
『やめて下さい。追悼慰霊団代表のわたくしのいる場所を、戦場にするおつもりですか』
 砂糖菓子のような印象をもたらす彼女は、しかし甘くは無い。
『そんな事は許しません』
 女神のように誇り高く。
『すぐに戦闘行動を中止して下さい。聞こえませんか?』
 勇将とされるクルーゼの猛攻を至極もっともな理由で止め、戦闘を回避させた少女。
 今後戦況に重要な変化を起こすだろう「足付き」を仕留められず、腹立たしかったのは事実。同時に、今までも何とも思っていなかったアイドルに興味を抱いたのも事実。
 何もなければ交わらなかったであろう道が、何の因果か交差してしまった。
 短い思考の時間は少女に上目遣いで見上げられて終了する。
 手を伸ばせば、抱きしめる事さえかなうほど間近で、彼女は笑っていた。
「――ラクス……嬢」
 時間と距離の感覚が小さなパニックを起こす。
「クルーゼ隊長」
 人を癒すと誉めそやされる、戦場で誰よりも強く通り抜けた彼女の声が、クルーゼを呪縛する。
「――何か?」
 彼は抑えた声で答える。
 ラクスは一度目を伏せ、そして顎を上げてまっすぐクルーゼを見た。
「お疲れのようですわ。どうぞ十分にお休み下さい」
 心の底から心配しているのが分かる口調で言われ、クルーゼは苦笑する。
「ありがとうございます」
 明瞭に答え、頭を垂れたクルーゼの額にごく軽く口付けて、ラクスは言った。
「どうぞあなたにも安らぎがありますよう」
 優しい祈りの言葉に、クルーゼは固く目を伏せた。腰を折り、繊細な手を取って、その甲に貴婦人にするような恭しさで接吻する。
 目に移ったピンク色のロボットは、彼女と未来を約束した自分の部下を思い出させたが、それでもクルーゼは走り出した気持ちを止められなかった。
「万人の安らぎを祈る歌姫にこそ、安らぎがあらん事を」
「ありがとう」
 彼女の声はひどく穏やかに響いていた。


 耳から離れない旋律。
 瞼から消えない姿。

 彼女を、欲しいと思った。

 約束の時間を過ぎたら、彼女はまた部屋を抜け出すだろう。
 それは確信に近い予感。
 わずらわしく思うはずのその行動を楽しみにしている自分を自覚しながら、クルーゼは椅子に身を沈める。
「どうやって捕らえるか」
 気持ちが定まった今、後は考えるだけ。

 クルーゼはひどく愉快な気分だった。





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