「もう少し。もう少しだけ……」
 歌姫は震えながら、それでもこの場から去ろうとはしなかった。


 

案内−満足しない者−




 仕事の呼び出しならば通信すれば済む。わざわざ部屋にまで訪れる部下はいない。
基本的にヴェサリウスに乗艦している時は任務時なので、プライベートでクルーゼの私室に訪れる者など皆無に等しい。
 そんな諸々の理由から、来客を知らせるインターフォンに不信を感じたのは仕方の無い事だった。
「何だ?」
 ヴェサリスに乗る人間全てがクルーゼの部下的立場にある。彼のこの答え方は当然の事と言えた。
『突然の来訪をお許し下さい。ラクス・クラインですわ』
 しかし予想は大きく外れて、やって来たのは現在ヴェサリウスで保護されるVIP中のVIPである少女だった。
 これが部下だったのなら、休憩時間を邪魔した事で八つ当たりして追い返すところなのだが、相手が彼のラクス・クラインだとそうはいかない。
 クルーゼは一つ溜息をついて髪をかき上げると、扉のロックを外して彼女を部屋に招き入れた。
「ごきげんよう、クルーゼ隊長。お休みのところ申し訳ありません」
『元気カー!?』
 少女とロボットの組み合わせが部屋に入っただけで、自室が異次元に変わったような気さえする。
「わざわざおいで頂かなくとも、呼び出して頂ければ部屋まで参りましたのに」
「私的なお願いをするのに、ご足労をかける訳にはいきませんわ」
 やや非難を込めて言っても、ラクスは気付いているかいないのかさらりと返す。
 その程度の労は、彼女がヴェサリウス内を闊歩した後の艦の空気を思えば喜んで買うものである。
 ただでさえラクスがいるという事で兵士達が浮き足立っているのに、ラクスが出歩く事で彼等のテンションが妙な方向に行かないか一抹の不安を覚えた。
「どうやってこの部屋がお分かりになりました?」
「人にお聞きしました。
 とても丁寧に教えてくださいましたわ。皆さん良い方で助かりました」
 この答えに、クルーゼは己の懸念は恐らく当たってしまうだろうと思った。
 ラクスに話しかけられた兵士から彼女の脱走は瞬く間に伝わり、兵士達をさらに浮き足立たせるだろう。
 士気が高いといえば高いが、あまりのテンションにいざ戦闘の時役に立たなくては困る。 「前にも言いましたが、そう簡単に出歩かれると困ります。
 私は同じ事は二度言いたくありません」
 少女はつまらなそうに肩を竦め、回答を拒否する。
『ハロハロー! 怒ルデエ〜!』
 まさに今の自分の心境を代弁する愛玩ロボットを一瞥し、クルーゼはラクスに視線を戻した。
「それで、何のご用なのです?」
「そうでしたわ。大事なお願いがあって参りましたの」
 いかにも忘れていました、という反応を返されて、クルーゼはわずかに脱力する。もちろんそれを目の前にいる少女に悟られるような事はなかったが。
 彼女は姿勢を正して、まっすぐにクルーゼと目を合わせた。仮面越しに二対の瞳がぶつかり合う。
「格納庫に……いえ格納庫の近くに行く許可を頂きたいんですの」
「格納庫に?」
 格納庫は最新兵器が収容されている場所で、特にこのような戦艦は重要機密がごろごろ転がっている。たとえプラントのアイドルだとて、やすやすと入れる場所ではない。
 彼女が見たものを露見する事などないとは思うが、それでも軍事機密を最高評議会議長令嬢だとはいえ仮にも一般市民である少女を簡単に連れて行けるところではない。
「しかるべき理由がおありで?」
 たとえあっても、許可など出さないだろう自分を分かっていながらクルーゼは尋ねる。ラクスはそれを読み取って、わずかに眉を顰めた。
「わたくしにはしかるべき理由です。あなたはお笑いになるかもしれませんが」
「伺いましょう」
 先を促す。
 ラクスはクルーゼの視線に気圧される事なく、言葉を紡いだ。
「歌を歌う為に」
 短く簡潔なそれに、クルーゼは笑いこそしなかったが密かに嘆息した。
「行って歌うのですか?」
「いいえ、違いますわ。ただ今後歌う時の為に行きたいのです」
 私的な願いと言っていたが、確かにこれはわがままとも取られるものだった。
 聡明な娘だと思っていた。
 自らにかけられる政治的思惑や期待を知りながら、それでも流されずに立っているのだと。
 だが、この願いはどうだろう。
 ただのお嬢様のわがままではないと言えるだろうか。
 先日の感動すら薄れそうな感覚を味わいながら、クルーゼはラクスを見る。
『テヤンデイ!!』
 話し出そうとした出鼻を電子音声にくじかれて、クルーゼは憮然としながら気を取り直す。拒否の言葉を言う為に。
「お願いします……」
 声は、断られるのを覚悟しながら、それでも一縷の望みをかける悲壮さがあった。
「言葉にするには難しく、けれどわたくしにはとても大事な事。
 わがままでしょう。自覚しています。
 もし許可頂ければ、わたくしはヴェサリウスを降りる時まで部屋にいる事を誓いますわ」
 一生懸命語る彼女の顔を見ながら、クルーゼはまだ決断を下すのは早過ぎるかもしれないと思い直す。
 ようやく気付いた彼女の輝きを、すぐさま曇らせる必要はない。
 "わがまま"の確かな理由は語られていない。ならばこちらもそれに賭けてみてはどうかと、一種ギャンブルをするような興奮を覚える。
「格納庫は軍事機密で溢れています。常識で考えて、無理な願いである事は分かっていますね?」
「はい……」
 やはりだめか、という落胆交じりの返事。
「だから、私があなたをお連れする事はくれぐれも内密に」
「え?」
 初めて見る驚きの表情に小さな満足を覚えつつ、クルーゼは構わず言葉を続ける。
「これは、あなたと私の秘密です」
 まるで共犯者に言い聞かせるように。
 クルーゼはわざと芝居がかったしぐさで口元に指を当てる。
「あなたが、ただのわがままでここに来た訳ではない事を信じて」
 ラクスはクルーゼの真意を汲み取り、ぱっと顔を輝かせる。一瞬前まではうなだれていたというのに、くるくるとよく変わるものだとクルーゼは感心した。
「ありがとうございます!」
『ハロハロ! らくす元気カー!?』
「ええ、ハロ。わたくしはとっても元気ですわ」
 嬉しさの余りくるりとターンする少女に苦笑しつつ、クルーゼはドアへと歩く。
「では参りましょうか。
人がいない道を選んでいくので、少々不便を感じるかもしれませんがご容赦を。良いと言うまでは喋らないで下さい」
「分かりましたわ。あ、クルーゼ隊長、お待ちになって」
 ラクスは喋って飛び跳ねるロボットを手に取ると、どうやってかは分からないが音声を小さくする。そしておもむろにクルーゼに近付き、その小さな手を伸ばした。
「動かれませんよう」
 つい身を引きそうになったクルーゼを牽制し、ラクスは無防備に距離を縮める。
 白い指先はクルーゼの鎖骨の当たりで止まったところで、ようやく彼にも合点がいった。
 彼とした事が、襟元が乱れたままだったのだ。
「よく外出前のお父様にもやってあげますの」
 温和そうな議長の顔を思い出すも、父親のように思われているのかと思うと少々ムッとする。
 最後に喉元を掠めて離れた温もりを幾分残念に思いつつ、クルーゼは素直に礼を述べた。
「ありがとうございます」
 いいえ、とラクスは微笑み、クルーゼは改めて彼女の前に手を差し出す。
「行きましょう」
「はい」
 ラクスは微笑んで、白い手袋に包まれた大きな手に己のそれを重ねた。

 最初はどこか楽しそうにしていた彼女だったが、格納庫に近付くにつれ段々と表情を強張らせていった。
 その変わりようは見ていて面白くもあったが、しまいには顔から血の気も失せてきたので、クルーゼは不審に思って問いかける。
「どうか致しましたか?」
「いいえ」
 先程の「いいえ」とは全く異なる硬い響きのそれに、クルーゼは引っ掛かりを残しながらも先に行く事を望む彼女の意のままにするしかなかった。
 さすがに格納庫の中にまで連れて行く事は出来ないので、格納庫に隣接する休憩室へ案内した。
 ここは格納庫を見られるように大窓があり、あまり使用しないソファが置いてある。
 娯楽があるわけでもなし、出陣前後の兵士が利用したり、整備兵が休憩時間を過ごしたり、簡単なミーティングをする以外には使用目的がないので、あまり利用されないのが現状なのだが、無ければ無いで少し困る簡素な部屋だ。
 そんな人がいない一室に入ったクルーゼは、見つかる事に配慮して明かりもつけずに少女を導く。ラクスもそれは分かっているのか、何も言わずに部屋に踏み込んだ。
 幸い、格納庫の明かりが窓から入りこんでいるので真っ暗というわけではない。目が慣れればそれほど不自由も感じないだろう。
 しかし、何の為に彼女はこのような場所に来るのを望んだのか。
 半端に分からないのはクルーゼの性にあわなかったが、それでも彼は黙って少女の好きなようにさせる。
自分は彼女に甘いのだろうかと思い至って即座に否定しつつ、再びラクスを見れば、彼女は胸元で組んでいる手を強く握り締めていた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……いいえ」
 否定の言葉は時として肯定になる。
 掠れる声で言い、首を振っても、嘘にしか見えない。
「ラクス嬢」
 再度強めにその名を呼べば、聡明な彼女はすぐに自分の演技がばれた事を察して目を閉じる。
「ここは、ここはとても身体が痛いですわ」
 声は驚くほど弱々しかった。
 小さくなった音声でロボットが何か言っているが、それに答える余裕もないらしい。ラクスは自らの体を抱くように両腕を掴む。
「痛い? どういう事です?」
 クルーゼには何とも無い。これほどまでに彼女が平静さを失う理由が分からない。
 今度は返答も無かった。
 けれど、とにかくラクスは苦しそうなので、クルーゼは紳士的にその肩に手を回して声をかける。
「よく分かりませんが、この場所がいけないというのなら部屋に戻りましょう」
 何の為に来たのか分からないが、尋常ではないラクスの様子にクルーゼはつい提案していた。だが彼女は、自分を支えるクルーゼの手に触れると強く首を横に振った。
「だめです。だめですわ。
 わたくしはこの痛みを知らなければなりませんの。たとえ痛くても、苦しくても、知らなければなりません」
「何故?」
「知らなければ、どうしてザフトの為に歌が歌えましょうか」
 彼は思わず言葉を失った。
「この痛みは、戦場へ行く方の心。兵士の命を預かるもの兵器に携わる方達の心。
 ここは戦場のとば口。
 行く者を選ばず、帰る者は選ばれる過酷な場所。
 ここにあるのは、プラントを守って下さる皆様の様々な心。それを全く知らず……分からずして、どうして軍に赴き、慰問と銘打たれる歌を歌えましょうか」
 確かに著名な歌手は視察や慰問として軍を訪れる事がある。彼女もそうだ。
 しかし、他のアイドルはここまでするだろうか。
 そこまで真剣に考え歌ってくれる者など、星の数ほどいる歌手の中でも一握りだろう。その一握りの中に、彼女はいるのだ。
「――ここには何もありません」
 だが、ラクスの言う痛さなどクルーゼは感じない。
ここはただの格納庫。愛機が置いてある場所に過ぎない。
「あるのは無機質の塊と、それを御する者達だけです」
 淡々と言葉を紡ぐクルーゼに、ラクスはやや首を傾げる。
「そうかもしれません。この世界に身を置くあなたのお言葉ですもの。
 けれど、この世界に身を置く方だからこそ……分からない事もありませんか?」
 触れた肩から身体の震えが伝わってくる。それでも言葉は明確に発せられた。
「私には分かります。ここにある皆様のお心が」
「他者だからこそ分かると?」
「はい」
 眉間に皺を寄せ、ラクスは肯定する。
 目に見えないもの、形のないもの、科学的根拠に裏付けられないもの。
それらは信じるに足らないものではあれど、否定出来るものでもない。確かに存在するのを、クルーゼも知っている。
「知って何になるのです?」
 クルーゼは続けて問う。
「歌が多少変わる、それだけでしょう」
 答えはあまりにも簡単明瞭だった。
「ささいな事で歌は変わります。
その違いは聞いて下さる方に及ぼすものも変わります。それが良かれ悪かれ」
 肩に回していた手はいつの間にか背中へと位置を変え、クルーゼはあまりにも自然にラクスを抱きしめていた。
「わたくしの歌は常に変化します。同じものである事はありません。
変わらぬ歌になんの魅力がありましょう……。わたくしは出来るだけ変化を得たいと思っています。その為の努力も惜しみません」
「歌の向上の為に訪れたと?」
「……それだけではないと思うのですけれど……」
 いまだ震える華奢な身体。
上手く言葉に出来ないことをもどかしく思うのか、腕の中でもぞもぞと動く。
「まだ痛みますか?」
「少し……。
 このような場所で、軍の方々はお仕事をしていらっしゃるのですね」
 悲痛な囁きだった。
 ただそれが、同情や哀れみなのか全く分からなかった。
 ラクスの手はクルーゼの制服の胸元を掴み、それで自身を支えているのか服はやや皺がついていた。
「なぜ歌の為にそこまでなさいます?」
 彼女が歌手の道を歩む事になった理由をクルーゼは知らない。
 本人の意思であったのかもしれないし、周囲の思惑であったかもしれない。
 ただ、暗闇でも分かるほどに肌から血の気を引かせるほどに辛い場所にい続けるほど、彼女にとって歌は大事なものなのか。
「わたくし、感情が高ぶるとどうしても歌いたくなってしまいますの。
 気がつけば何かを口ずさみ、気がつけば何かを歌っている、ただそれだけです。
 わたくしは歌わずにはいられません。けれど、ただ歌うだけの人形にはなりたくないのです」
 聡い彼女の事。自分に付いて回る政治の影も求められるものも分かっているだろう。
 だがしかし、彼女は紛れもなく歌う事に誇りを持ち、その為に心血を注いでいる。
 自分の歌が、聞く者に一時の安らぎになれば良いと願い、その為には痛みも苦しみも甘受しようという姿勢。
 小さな少女は、紛れもなく強い意志を持って立っているのだと、改めて感じる。
「まだここにいますか?」
 空気を壊さぬよう、努めて穏やかに小さな声で尋ねる。
「もう少し。もう少しだけ……」
「仰せのままに」
 どこかでは動揺しているのか、ラクスはクルーゼから離れない。クルーゼの腕の中で目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
 まるで痛みをこらえるかのように。
 軍の者が言わない全てを、彼女が身体で代言しているかのようだった。
 クルーゼはピンクの髪を撫でながら、窓の外を見やる。

 ここは戦場のとば口。
 行く者を選ばず、帰る者は選ばれる場所。
 どれほどの者が飛び立ち、そして帰還しなかっただろう。

 平和を願う少女の影響か、やたらと感傷的になっている自分がいるのを、クルーゼは一方で嫌悪しつつ、また一方で拒絶しなかった。


「クルーゼ隊長にはご迷惑をおかけしてばかりですわね。いつかきちんとお礼しなくては」
 ようやく気が済んで部屋に戻ってきたラクスは、願いを聞き届けた挙句部屋まで送ってくれた青年将校に微笑む。
 ようやく見せてくれた少女の笑みにひどく安心した自分を認め、クルーゼは我ながら随分落ちたなとぼんやり思う。
「礼などととんでもない。お言葉だけで十分ですよ」
「わたくしが納得いきませんもの」
「では、礼代わりとして無礼をお許し頂けるならば、貴女が歌手としても一人の女性としても、とても魅力的で尊敬に値する女性だと、一軍人が図々しくも考えている事をお許し頂きたい」
「まぁ」
 ラクスは読めない笑顔だけを返して、真剣に取り合おうとはしなかった。
 恐らく、おべっかやおべんちゃらなど聞き飽きているのだろう。
 クルーゼにしては珍しく本心からの真剣な言葉だったが、彼女の反応は予想通りとも言える。
「本当に色々とありがとうございました」
 もう一度同じような事を言ったラクスは深々と頭を下げる。
「申したでしょう。私はフェミニストなのです」
「クルーゼ隊長、余計なお世話ですけれど嘘は必要最低限にしたよろしいかと思いますわ」
 言外にそれは嘘だと言い放ち、調子を取り戻しつつあるのか、彼女はまた笑う。
まさかばれていたとは思わなかったクルーゼだが、やはりこの少女は面白いとも思った。
「あなたの歌がどう変わるのか、次の機会にでもお聞かせ願えれば幸いです」
 それが、少女の意味不明の行動から得られた唯一のものであった。
 今度聞く歌は、間違いなく今までとは違うものを持ち得ているであろう。クルーゼは確信する。
「お礼も兼ねて、その時はあなたの為に歌いたいと思いますわ」
「光栄ですな」
 ふとクルーゼは思いつき、唇に笑みを刻む。
「そうそう、忠告しておきましょう。
男の部屋に無防備に足を踏み入れるのは止めた方がいい。それから、安易に男を部屋に入れるのも」
「え?」
「何をされても、文句は言えないのですよ」
 クルーゼはラクスの肩を掴んで胸元に引き寄せ、そのまま掠めるように唇を奪った。ラクスが目を見開き、一瞬だけ時が止まる。
 クルーゼは少女のほのかに甘い香りを覚えこみながら、反射的に離れようとする彼女の力に任せ、ドアの一歩前まで下がる。
「何を……」
 気恥ずかしげに顔を染め、口元を押さえたラクスが言う。クルーゼは余裕の笑みを浮かべながら言い放った。
「先程申しあげたセリフは本気です」
 意識してもらわなければいけない。
 自分は父親ではなく、兄でもない事を。安全な男などではない事を。
「こうでもしないと、あなたは気付いてくれないでしょう」
 遠回しに言っても冗談にされて、本気で言っても相手にされない。
 そんな相手の目を向かせる方法。いささか不躾ではあるが、これ以上効果的なものもない。
「あなたの事を欲する愚か者が、ここにもいる事を覚えておかれよ」
 クルーゼは最後に一言言い置き、優雅に一礼して退室していった。
 残されたラクスといえば、彼が出ていったドアを呆然と見つめ、癖なのか頬に手を当てて、ただただ意味のない母音を呟く。
 ほんのりと桜色に染まった頬をクルーゼが見なかったのは、彼と彼女、どちらにとっての幸運か不幸か。


 静かに動き出した何かを知っていたのは、それを動かした張本人の仮面の男だけだった。








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