「これでよろしいですか」
 見てはいけなかった。
 優しそうで冷たい顔を。
「ラクス」
 聞いてはいけなかった。
 冷たそうで穏やかな声を。


 攻防−狩人−



 本人は無論知らないのだが、「脱走常習者」とお嬢様らしくない称号をとある人物二名より密かに与えられているラクスは、しかしここ三日ほどその名に反して部屋を出ていなかった。
 ずっと部屋にこもって物憂げな顔で何かを悩んでいる風情のラクスに、彼女を一番良く知る婚約者などは徐々に心配を募らせている事も彼女は預かり知らぬ事。
 部屋に備え付けてある椅子に座り、机の上で転がるハロをぼんやりと眺める。
「わたくしはどうしてしまったのでしょう」
『毎度! 毎度!』
 いつもと変わらぬ友達の声。自分だけが遠い世界にいるようで、ラクスは溜息をついた。
 自分が変な原因は、分からない訳でもなかった。
 あの男。
 ラウ・ル・クルーゼ。
 唇を奪い、想いを告げてきた婚約者の上司。
『怒ルデエ』
「そう。わたくしは怒っても良いのですよね」
 タイミング良くその単語を言ってくれたハロに言い、ラクスは確かめるように頷き、唇を指で撫でた。
「怒っても……」
 だがなぜかラクスは怒っていなかった。
 いまだ残る彼の唇の感触。初めてのそれは突然で、意外な温かさがあった。
『コンニチハ〜』
 変わらぬハロが唯一の救いだった。
 ここには何も無い。気を紛らわすことも出来ず、部屋を出る気にもならず、ラクスの思考はあの時の事に捕らわれる。
 自分を嫌っている節のあったクルーゼのあの言葉。ただの形式的なものだと思っていた。立場上、そういう言葉を述べられるのは多い。
 彼が何を求めているかは知らないが、好んで戦場に立ち戦果を望んでいるのは分かる。そんな好戦的な男の部隊に与えられた任務は、娘一人の捜索。さぞかし嫌であっただろう。
 ラクスは冷静に考える。
 感情の抜きにして、客観的に物事を考える術はとうに身についていた。
「おかしいですわ」
 独りごちる。
『オ前モナ〜!』
 絶妙なハロの突っ込みは誰にも評価されず、ラクスはただ考え続ける。
 いや、続けようとして―――止めた。
「休憩にしましょう」
 いかに遺伝子操作を受けたコーディネイターといえど、ずっと考え続けるのは疲労が溜まる。考える事をそれほど苦としないラクスでも、長時間全く分からない問題に取りかかるのは苦痛になりつつあった。
『らくすぅ』
「ふふ、ハロ。良い子ですわね」
 ぐるりぐるりと回転するハロを指先でつついて、ラクスはコンピュータの電源を入れた。

 ラクスが最近部屋から出なかった理由の一番はそういう気分にならなかった為だが、実はもう一つ、歌詞作りをしている為でもあった。
 近頃目が回るほどたくさんの事があり、色々な場所で様々な気持ちで歌を歌った。
 日常からは考えられない非日常は、ラクスに何かをもたらし、何かは胸の奥から言葉という形になってあふれ出る。
 思い浮かぶ言葉の欠片。とりとめないそれらをコンピュータに打ち込みながら、ラクスはここ数日を回想する。
 いまだ鮮やかな記憶。思い出というには新し過ぎて、生々し過ぎた。
「キラ様はどうしているでしょう……」
 彼のおかげで自分は今ここにいられる。人質である自分を逃した彼は叱責を免れられまい。そう思うと胸が痛む。
 アスランの事を話せて楽しく、敵軍の中で唯一優しくしてくれた彼は、かなりの救いだった。
『ハロハロ』
「あなたのお父様も苦しいでしょうね」
 差し伸べた手を拒絶されたアスランの表情は、今も目に焼き付いて離れない。キラとよほど親しい友達であったのであろう事が伺えた。
「なぜ、お二人が戦わねばならないのでしょう」
 恐らくは当事者の少年達が最も強く思っているだろう事を、ラクスは溜息を共に吐き出す。
「わたくしは無力ですわ」
『怒ルデエ!』
 ラクスの言葉を否定するように、ハロが甲高い電子音声で叫ぶ。
 ランダムに発せられるはずの言葉はあまりにも絶妙過ぎて、持ち主である少女は苦笑する。
「そうですわね。わたくしはわたくしのすべき事をしなくては」
 自分を扱き下ろすのは簡単で、嘆くのは無意味だ。
 少年達は、それぞれの判断で道を選んだ。彼女に出来る事は全てを見届け、人を癒すべく歌う事。
 波立つ感情を沈めたラクスは、再開した作業に没頭し始めた。

 どれくらい時間が経っただろうか。
 インターフォンが来客を告げ、ラクスは集中を遮られて顔を上げる。自分の世界に入っていたところを現実に引き戻され、少女はややぼんやり部屋を見まわすと、ようやく人が来た事に気付いて応対した。
「はい」
『ラウ・ル・クルーゼであります』
 回線を通って聞こえてきたのは、ここ最近ラクスを悩ませる男の声だった。
 しばし逡巡したものの、結局ロックを外して扉を開ける。クルーゼは手に何かを持ち、流れるような動作で入室した。
「どうなさいましたの?」
「夕食を届けに参りました」
 言いながらクルーゼは持っていたものをテーブルに置く。それはパッケージされたランチプレートと飲み物だった。
「まあ。ありがとうございます」
 時計に目をやれば、確かに夕食の時間である。
 悩む事と歌詞作りに集中していたせいか、時間の経過に全く気付かなかった。
「アスランの方が良いとは思うのですが、生憎彼は手が放せなくて」
「そんな事はありません。けれど、隊長であるあなたがわざわざ届けなくとも」
「下手に他の者に任せると色々と大変なのですよ」
 クルーゼは口元だけで笑い、ラクスは言っている意味がよく分からずに首を傾げる。 「あら……? 二人分ありますわね」
「私の分です。
 あなたが、食堂で皆と喋りながら食べる事を望まれているとアスランから伺ったのですが、それはさすがに許可出来ませんので、ご同席をと思いまして」
「一緒に食べて下さるんですの?」
「お許し頂ければ」
「許すなどとはとんでもない! 嬉しいですわ。ぜひご一緒しましょう」
 先日のクルーゼのした事を忘れたわけではなかったが、彼はあれから軍人としての振る舞いを徹底していた。一日に一回は必ず"ご機嫌伺い"に来たが、それもアスランやアデスなどを伴い、決して一人で来る事は無かった。
 だからやや安心していたし、一人で取る味気ない食事には飽き飽きしていたので、ラクスは快く頷いた。
 ――頷いて、しまった。

 クルーゼと共に取る食事を、ラクスは久々に美味しいと思った。
 彼は饒舌ではないが、婚約者のように無口でもない。
 それなりに話題を振り、ラクスの話に答え、つつがない会話をする。聞く話は興味深く、言われる意見は新鮮だった。
 クルーゼの態度は紳士として申し分なく、年上らしい落ち着きも、穏やかな口調も、彼を警戒していたラクスを安心させる。
 食事は穏やかに続き、ラクスが近頃ひどく長く感じていたこの時間は、今日は驚くほど速く過ぎていた。
 ラクスが気付いた時には、彼の容器も自分の容器も空だった。
「やっぱりお食事は誰かと一緒の方が美味しいですわ」
 空いた容器をてきぱきと纏め片付けながら、ラクスは上機嫌に言う。食事中の為ハロは静かにさせているのを一時的に忘れるほど、彼女の機嫌は良かった。
「そうですか?」
 ややくつろいだ風のクルーゼは静かに答え、ドリンクを飲んだ。
「ええ。一人だと味気ないものです」
 ささいな、当たり前の事。
 それらを、ラクスは何よりも愛すべきものだと思う。この戦乱の世は、その尊さをまざまざと思い知らせる。
「このような、なんでもない時間が好きですわ」
 独り言のように発せられた呟きは、男に聞こえたかどうか。
 彼は何も言わなかった。
「随分と手馴れていらっしゃるのですね」
 ぽつり、と少しクルーゼらしくない言葉が漏れて、ラクスは小首を傾げる。
「何が、ですか?」
「片付けの手際とでも言いましょうか」
 歌姫のイメージではない、と彼の纏う雰囲気が語り、よく言われる台詞をまた言われてしまったアイドルは唇を尖らせる。
「まぁ。わたくしとて女ですのよ。それに花嫁修行は受けていますわ」
 ラクスは言ってからハッとした。
 言葉が終わるか終わらないかの内に、目の前にいる男の空気が激変したのである。
「――無自覚とは罪でさえあるようだ」
「クルーゼ……隊長……?」
 突然変わった男の声の低さに、背筋に寒気が走る。知らず一歩下がったラクスは、椅子に座った男に真っ直ぐ見上げられて身を竦ませた。
「あなたを慕う男の前で、別の者の為の花嫁修行の話をするものではありませんよ」
 彼の真意を探ろうにも、顔を覆う仮面に阻まれ、少女は黙り込む。
 疎い話題の為、やや時間を要して言葉を意味を理解したラクスは、それがあまりにクルーゼのイメージに合わなくて、ついまじまじと彼を見てしまう。
「私とて、つまらぬ感情は抱くのです」
 ラクスの視線を意味を察したらしいクルーゼは、やや憮然とした面持ちで言う。
 彼は、アスランとの結婚の為の花嫁修行を快く思っていないのだ。

「……先日、あなたはわたくしが欲しいと仰いました」
 意を決して、ラクスはあれから抱き続けた疑問を口にした。
「それは"クライン"を?」
 最高評議会の議長である父に取り入ろうとラクスに近寄ってくる者は多く、自分を求める者の多くが、最高評議会議長の令嬢を求めている事を知っている。
 そういった大人達の汚い欲望を幼い頃から見てきた少女からすれば、この問いは至極当然のものと言えた。
「私が後ろ盾を求める男に見えますか?」
 クルーゼは冷たく笑って否定する。窺える自信は偽りなどではなく、ラクスは安堵し、次の瞬間、彼を見詰めた。
「本気……ですか?」
「戯れであのような事は致しませんよ」
「……信じられませんの。
 わたくしは歌う事しか取り柄の無い、しがらみだけは多い女です。婚約者もおります。そんなわたくしに……」
 良いながらラクスは顔を赤くする。
 あんな風に気持ちを向けられたのは初めてだった。
「自分を卑下なさいますな。それに、周りなど関係ありません」
 柔らかながら芯のある強さを持つ声に、ラクスはぴくりと身を震わせて恐る恐る男を見上げた。
「私はただ、ラクスという人間を欲しているだけです。あなたの心をもらいたい」
 明確な告白に、ラクスの白い頬が真っ赤に染まる。
 あまりの照れと恥ずかしさに、穴があったら入りたくなって、思わず手で顔を覆い隠した。

 自分以外の人間が、心の中に入ってくる。
 強烈に力強く。
 こんな事は初めてで新鮮で、心地よい感じさえしてしまう。

「どうかされましたか?」
 落ち着き払った声がいっそねたましい。
 全て計算ではないかと感じるのに、彼に悪感情を抱けない。
「もしも、本当にあなたが本気だというならば……」
 この期に及んでこんな事を言うのは愚かだと分かっていながら、それでも芽生え始めた思いを否定したくてラクスは言う。
「本気だというならば、お顔を見せてください」
 試すような言葉。無礼だという事は承知の上。卑怯なのも自覚している。
 自分の顔は隠したまま、恋に慣れぬ少女は男の返答を待つ。
 ラクスの脳裏に、無口だが優しい少年と、プラントの重職にある父親達の顔がよぎっていく。
 気付いてしまった心を認める事は出来なかった。認める事がどういう事か知っていた。
 ラクスは指の間からクルーゼを伺う。さしもの彼も呆れて諦めてくれたかと望みをかけて。
「……っ!」
 しかし、望みは叶わない。
 クルーゼの手は仮面を外す為だろう、後頭部に回っていた。
 やめて、と飛び出そうな制止の声は喉に詰まって音にならない。
 意外と簡単な作りの仮面はあっさりと外れ、押さえつけられていた白金の髪が揺れる。クルーゼは硬直するラクスの手を顔から引き剥がし、その手にたった今取り外した仮面を乗せる。
 ほのかに装着者の体温を宿したそれは、しっとりと手に馴染んだ。
「これでよろしいですか」
 隠していた顔を良く見せるように、クルーゼは背をかがめてラクスの顔を覗き込む。
「ラクス」
 息遣いさえ感じられそうな至近距離で、男は甘く囁いた。
 初めて見る彼の素顔と、初めて感じる彼の空気と、初めて(いだ) く己の心に翻弄されながら、それでもラクスはふらつきそうになる足を踏み留める。
 面白そうに自分を見るクルーゼを、真っ直ぐに見返した。
 二対の双眸は互いをひたと見据えて逸らされず、またそれぞれ自分の全てを見透かされそうな錯覚を覚えていた。
「……わたくしを、望むというのですか……」
 掠れてゆっくりとした調子の言葉が示すのは、最後の確認。
 くどいまでの問いは、自分が背負わされまた背負うものの重さと、決してなくならない弱さからくるもの。
「あなたを望みます」
 わずかな間も置かずに返ってきた答えは、ラクスの中の何かを打ち砕いた。
 クルーゼはもはや何にも隠されていない素顔で笑う。その笑みを見た瞬間、ラクスの頭のどこかで声がした。

 戻れないよ、と。

 自分は自分で首を締めたのだと、少女は悟る。
「あなたは、私の手を取りますか?」
 スッと差し出された手を、ラクスは微かに震えながら見つめる。
 ラクスの取る行動を分かっていながら、冷たく笑ってそれを待つ男を、少女は恐ろしいと同時に腹立たしく思い、それなのに彼から目を離すことが出来なかった。
 優しそうで冷たい顔を、ラクスは綺麗だと思った。
「わたくしは……」
 冷え冷えとした瞳は、奥底に強い光を宿し少女を絡め捕る。獲物を前にした肉食獣のそれに、彼女は瞳を眇めた。

 逃げられないよ、と、先ほどと同じ声がした。

 強く握られていたラクスの手がゆっくりと開き、動く。
 そろりと、手袋をしていない大きな手に近付いていく。


 この想いは―――この恋は、多くのものを壊すのだと分かっていても、ラクスは自分の手を止める事が出来なかった。





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