困りきった顔の部下を視界の隅に認めた瞬間、クルーゼは歌姫の現在状況を悟った。 我慢−たゆたう者− プラント最高のアイドルと言っても過言ではない少女は、己の立場を重々理解していながら非常に無頓着である。 なまじ聡明であるから、絶対にしてはいけない事と少々の説教で許される事を見極め、ほいほいと部屋を抜け出す。 堅物の婚約者は、恐らく痛む頭を抱えているだろう。 普段は拙いながらポーカーフェイスに努める少年だが、地球軍のMSパイロットの事と婚約者の事に関しては表情を崩す。あまりに落差があるのですぐ分かるのだ。 クルーゼは彼女の脱走をそれほど困った事だと考えてはいない。むしろ接触の確立が増えるので、好ましく思ってすらいるかもしれない。 「さて……。お嬢さまはどこへ行ったのやら」 独りごちて、頭を回転させる。 見つかって咎められるようなエリアには行かない。人が多い場所も恐らく行かない。 艦内の地図を脳裏に浮かべて、行きそうに無いところに斜線を引いていく。ある程度範囲は絞れたが、それでもかなりの広さがある。 休憩時間が少女の探索に費えるかもしれない、とどうでもいい覚悟をし、クルーゼは無重力空間を移動し始めた。 いくつかの部屋を調べて空振りに終わり、何度目か分からない扉の開閉を行なおうとした手が止まる。 ほんの微かに、甘い香りがした。 ヴェサリウスは戦艦で、匂いがするとすれば機械や油、機械が熱せられた時の鼻につく匂いぐらいだろう。 だがそれは微かに、だが間違い無く鼻を掠めた。 まるで自分が花の蜜を求める蝶にでもなったかのような気分になりながら、クルーゼは確信を抱いて匂いのする方向へ進んでいった。 そこは彼女と初めて接触した場所だと気付き、部屋の扉をノックもせずに開く。 自分を導いた香りはより強くなっているというのに、部屋には誰もいなかった。 ―――否。 天井に、美しい花が咲いていた。 「それは何のつもりですかな?」 唇の端を吊り上げて、後ろ手に施錠しながらクルーゼは笑いながら問う。 相変わらず、彼女の行動は予測不可能だ。 甘い香りを纏う彼女は、ぴったりと天井に張り付いてクルーゼを見ていた。 「ハロが誰か来ると教えてくださいましたの。 見つかったらお部屋に閉じ込められてしまうでしょう? ですから、こうして隠れておりました」 少女は無邪気に笑う。 『ハロハロー!!』 ロボットが喋りながらクルーゼに突進し、彼は結構なスピードを出している物体を片手で受け止める。 「まぁハロ、クルーゼ隊長が気に入りましたの?」 『怒ルデエ!』 否定するように即答する。 感情プログラミングされていないはずのロボットは、怒ったように男の手の中で喚き立てる。幾分鬱陶しかったが、ラクスとこのロボットはセットのようなものだったから、クルーゼは一つ溜息をついて諦めた。 クルーゼの周囲を飛びまわるロボットがおかしいのか、ロボットに付き纏われるクルーゼがおかしいのか、ラクスはとても面白そうに笑った。 「部屋に押し込めませんので、そろそろ降りてきてはどうです?」 言いながら、クルーゼはラクスに手を差し出す。 普段彼女を見下ろしているせいか、見下ろされる事に違和感を覚えていた。 くすくす笑いながら、ラクスは細い腕を伸ばしてくる。それだけしか動く気はないらしく、それ以上の行動はない。 クルーゼは笑みを深くして、差し出された手を取って口付ける。 「どうなさいました?」 手の甲に口付けられ、そのまま喋られてくすぐったいのか、少女は更に笑う。 その微笑は十六の少女の持つものとは思えないほど妙に艶めいていて、クルーゼの脳髄を揺さぶった。 同時に、それは苛立ちを起こさせる。 見知った彼女がいない事に。こんな顔を知らなかった事に。 クルーゼは捕まえた手を引っ張り、少女の華奢な身体を腕の中に閉じ込める。 「答えなさい、ラクス」 評議会議長令嬢に対する丁寧な口調を少しだけ崩して、クルーゼはラクスの耳元で囁く。少女は男の低く甘い囁きにぴくりと身を震わせて、少ししてから諦めたように身体の力を抜く。 どうやら彼女は、抵抗しても無駄な事を悟ったらしい。 「別に何でもありませんのよ。 敢えて言うのなら、ただ」 「ただ?」 「星に酔っただけですわ」 うっとりと呟く少女に、クルーゼは息を呑んだ。 先日感じたばかりの、背中に氷水を流しこまれたような感覚に全身の毛が逆立つ。無意識に腕の力が抜けたのか、するりとラクスが腕の中から抜け出して大窓へ近寄った。 ――感嘆の溜息が漏れそうだった。 浮世離れした憂いの表情。伏した目が遠くを見詰め、その陶磁器のような白い頬にかかる秋桜色の髪。 彼女は美しいのだと、改めて思う。 「宇宙は広いですわね」 言いながら、彼女がゆっくりと顔をこちらに向ける。伏し目がちの瞳が流れるように動き、クルーゼを見て止まった。 「ここにいると星々に抱かれているよう」 プラントの希望という概念の偶像たる少女は、何を思うのだろう。 微生物も生きる事の出来ない、絶対の生のない宇宙を見て、何を感じるのだろう。 そんな自分らしくない事を考えながら、クルーゼは少女の顎に手をかけた。微かに花を掠めた甘い香りを吸い込んで、自覚無く安堵する。 「あなたを抱くのは私だけと思いたいのですが?」 言いながら、顔を近づける。 しかし唇と唇が触れる前に、冷たい金属によって目論見は阻まれた。 『サセルカ!』 既に耳に慣れた電子音声が鼓膜を叩く。 あまりにも場にピッタリなロボットの台詞に、クルーゼは軽い頭の痛みを覚えた。 「駄目ですわ、クルーゼ隊長。 そういう"お約束"でしょう?」 愛玩ロボットで男の行動を止めたラクスは、両手でロボットを掴んだままたおやかに笑う。そこに、"約束"がなされた時の顔は見当たらなかった。 先日の夕食後の席、ラクスはクルーゼの真意を問い、クルーゼは彼女を手に入れる為の王手をかけた。 彼は勝利を確信していた。 少女が手を取る事を疑わず、獲物が飛びこんでくるのを待っていた。 かすかに震えながら伸びてくる手はどこか艶めかしくて、少しずつ近付いてくる事がクルーゼの笑みを深くしていく。 細い指先が、ほんのわずかにクルーゼの指先に乗る。握り返そうとした瞬間、白い繊手はすっと離れた。 『まだ、この手を取る訳にはいきませんわ』 猫に追い詰められた鼠のように、不安と……恐らくは恐怖に瞳を揺らし、彼女は小さくも通る声で言う。 『あなたの手を、簡単には取れません』 青い瞳が真っ直ぐにクルーゼを射る。 優しさが溢れた双眸は、奥底に強い意志の光を宿し、研ぎ澄まされた知性の存在を感じさせる。 『わたくしが……あなたに特別な感情を抱いているのを、認めないわけにはいきません。自覚しています』 その言葉を聞いた時の感情を、身体の震えを、どう表せば良いのか。 頬をかすかに上気させ、つかえながら言葉を紡ぐ少女を抱き潰してしまいたいと思った。 『けれどこの感情は、非日常で混乱したわたくしの心が感じる、その場限りのものではないと言い切れません。 その……こういう想いを抱くのも初めてで、まだ戸惑っています』 ラクスは震えながら、それでも一生懸命自分の考えを口にする。 『私に特別な感情を抱きながら、私の手は取れないと?』 意地悪な言い方だったと思う。 彼女はますます顔を赤くし、俯いた。 『……自分の気持ちを見定める時間が欲しいのです。 あまりに色々な事が……短時間で起こり過ぎました。整理する時間が必要なのです』 両手を固く組み合わせ、ラクスは再びクルーゼと視線を合わせた。 ごまかしや一時凌ぎの言葉ではない。 少女には、クルーゼの手を取る事の意味を正しく理解し、己の感情を知ろうとし、クルーゼと真剣に向き合おうとするひたむきさがあった。 それは、今まで見てきた、歌に対する彼女の姿勢とどこか似通っていた。 命をかける事すら厭わない、己の全てを賭した、あの姿と―――。 『―――では、私はいつまで待てばよろしいのか?』 気付けば、クルーゼの口からそんな言葉が発せられていた。 『待って……いて下さいますの?』 大きな目を何度か瞬き、驚いた顔のまま歌姫は問うてきた。 『これは異な事を』 おかしくて、クルーゼは笑った。 楽しくもあったかもしれない。 『私はあなたが欲しいのです。 そのあなたが、私を選ぶまで時間が必要だと言うならば、待つのが当然でしょう?』 秋桜色の髪を一房手に取り、口付ける。 一瞬で彼女の白い頬が朱に染まるのを楽しみながら、その双眸を見据える。 青い宝石に宿るのは真摯な輝き。 そして、今までなかった熱がある。 恋をしている者の眼。 ―――そこまで思い、クルーゼは内心で嘲笑った。 三流詩人のような例えをした自分を。 恐らくは、少女と同じ眼をしているだろう自分を。 『では……この艦から離れ、次にお会いする時まで、お待ち下さいますか?』 『待ちましょう。良い答えを期待しております』 もう一度その髪に唇を落とし、逃げようとする彼女の腰に手を回して捕まえる。押し返そうとする腕を掴んで、掌に唇を落とす。 滑らかな肌はしっとりと唇に馴染み、香水か少女自身の匂いか、甘い香りがクルーゼを酔わせる。 『ク、クルーゼ隊長っ』 『何か?』 めったにない慌て気味の歌姫の声に、行為はやめぬまま尋ねた。 『答えが出るまで……こういう事をなさるのは止めてください……っ』 『何故?』 『わたくしの心臓が壊れてしまいますわ』 懇願するようなその言葉に、クルーゼは不覚にもラクスを抱いたまま身体が震えるほど笑ってしまった。 『クルーゼ隊長!』 頬を薔薇色に染めて抗議するラクスを、一度強く抱き締めてから開放する。 『分かりました。 答えが出るまで、あなたの意に添わぬ行為をしない事を約束します』 少女が、あからさまにホッとした様子だったのが気に食わないといえば気に食わないが、それにもクルーゼは目をつぶった。 あと一息。 プラントの至宝がほぼ掌中にあるのだという・・事実が、クルーゼに大きな満足を与えていた。 クルーゼが長いようで短い回想を終えると、ラクスは再び宇宙に目を向けていた。 「何か見えますか?」 「ええ、たくさんのものが」 『ハロ〜、元気カー!?』 両手で手にしているロボットが、どこか気遣わしげな響きで主人に問う。少女は笑むように目を細めてペットロボットを撫で、また窓の外に視線を戻す。 「―――一歩間違えれば、わたくしはここにいなかったのですね」 「ラクス?」 まるで砂糖菓子のような甘さだった声音が変わったのを、クルーゼは聞き逃さなかった。 夢見心地だった表情が、打って変わって厳しいものとなっている。訝しみながら、クルーゼはラクスの動向を見守った。 「もしかしたら、わたくしは宇宙に浮かぶ物体のひとつになっていたのかもしれません」 知らず、クルーゼは息を呑んでいた。 「救命ポッドの中で宇宙を漂っている時……怖いと思いました」 狭い救命ポッドにたった一人押し込められ、いつ来るかも分からない救助を待つ。 無限ではない酸素。 厚いが薄い壁一枚隔てたところには、いのち生命の生きられぬ空間が広がる。 長時間そんな状態でいれば、気が狂ってもおかしくはない。 「怖くて怖くて……どうしていいのか分からなくなりそうでした」 小刻みに震える双肩。 固く閉じられた瞼。眉間には皺が寄っていた。 「あの時、地球軍の方が拾って下さらなかったら、わたくしはとっくに気が狂っていましたわ」 少女は儚く微笑む。 この時、打算も思惑も画策もなく、ただ純粋に、彼女を抱き締めたいと思った。 そして驚くべき事に、敵である地球軍――しかも墜とさんと躍起になっている――の足付きのクルー搭乗員達に一抹の感謝の念を抱いた。 「……抱き締めても?」 腹の底からせり上がって出てきたような声だと、自分の声ながら思った。 クルーゼの心の底からの"願い"だったが、少女は首をゆるやかに横に振って拒む。予想通りの反応に、大きく息を吐いた。 しばらくどうしようか悩んだものの、結局床を蹴り、窓の外から視線を離さない少女の背後に移動する。 抱え続けていた恐怖を吐露した彼女は、クルーゼの行動を気にするでもなく、額を強化ガラスに当てて何か祈るような顔をしていた。 クルーゼは、そんな少女の両脇に腕を伸ばす。 腕の中に閉じ込めるように。 何かから守るように。 けれど、決して触れないで。 約束など交わした事を、少しだけ悔やみながら。 少女の強さと弱さが、たまらなく愛しかった。 「……ありがとうございます、ラウ様」 しばらく後、気持ちの整理をつけたらしい彼女が言った。 初めて呼ばれた名前は思いのほか甘美な響きで耳朶を打ち、クルーゼは仮面の下で目を丸くするのだった。 |