彼女がヴェサリウスを離れるのは当然の事だというのに、それを腹立たしく不満に思っている自分を自嘲した。 別離―去る者― 保護したラクス・クラインを、プラントまで送り届ける部隊から連絡が届いた。 ヴェサリウスまであと半日ほどの距離まで来ているとの報告である。これなら、後数時間程で合流できるだろう。 相手部隊の隊長と言葉を交わしながら、クルーゼは脳内で今後の予定を立てていく。 議長令嬢の引渡しが終わり次第、クルーゼ隊は再び"足付き"の追跡・撃破の任務に戻るのだ。ゆっくりしている時間は無い。 取り逃がした地球軍の戦艦を思い出すと、どろどろする胸の内を感じる。 クルーゼは昏い衝動を強引に押さえ込み、幾つかの連絡事項を交わして通信を終わらせた。 一つ息を吐くと、すぐさま立ち上がる。 「どちらへ?」 艦長席に座っていたアデスが、クルーゼの行動に気付いて尋ねてくる。 「ラクス嬢に事の次第の説明をしてくる。彼女が一番気にしているだろうからな。 その間に、今の通信及び状況を全搭乗員に知らせておけ」 「分かりました」 多種多様な感情のこもったの視線を背中に受けながら、クルーゼはブリッジを後にした。 もはや通い慣れた、彼女がいる部屋への道を行きながら、クルーゼはこみあげてくる笑いをこらえる。 プラントのトップアイドルの名は伊達ではない。 ラクスの部屋に赴く際に向けられる視線は、羨望や嫉妬、時には憎悪じみたものまで様々で、彼女の人気振りを窺わせる。 今まで自分が彼女にした行為の数々が彼等に露見すれば、まず間違いなく自分は闇討ちに遭うだろう。 勿論、そんな迂闊な真似はしないが。 ――そこまで考え、彼女の部屋に行く事を楽しみにしつつある自分の変わりように、クルーゼは複雑な溜息をついた。 ここ数日の間でどれほどその部屋に赴いたのか、数える気にもならない。 何回か食事を一緒に取ったし、ご機嫌伺いで何度も訪ねた。それ以外にも、かなりの回数その部屋に立ち入った。 らしくないと、分かってはいるのだ。 だが分かってはいても、変化は止まらない。 己が変わる様は愉快でもあり、疎ましくもあった。 少女への説明を考えながら移動していると、ふいに前方に気配を感じて顔を上げる。 そこには、春の空気を纏う歌姫がいた。 「おや」 仮面の下に隠れているクルーゼの目が瞬く。 最近は外出を控え気味で、しかもここら一帯はあまり足を踏み入れなかった彼女である。クルーゼの小さいながらの驚きは当然の事と言えた。 「ラク――」 ラクス嬢、とクルーゼがその名前を呼び終わる前に、彼女はくるりと踵を返して床を蹴った。どう見ても逃げたとしか思えない少女の行動は、いとも簡単にクルーゼの中の何かに火をつける。 「面白い」 独りごちて、クルーゼも彼女に続いた。 艦内は居住区を除いて、ほとんどが無重力である。 わずかな制御がしてあるので上下逆さになるなどといった極端な事はないが、移動は"歩く"のではなく"浮遊"する。 故に、移動速度は初動作の力と勢いで決まる。 「捕まえましたよ」 軍人とか弱い少女の脚力の差は明白で、あっけなくラクスはクルーゼに捕獲された。 「〜〜〜〜っ」 クルーゼは何ともいえない顔をする歌姫の腕をしっかりと掴み、何気ない動作で人の目に付かない死角へと移動する。そういった配慮は抜け目のない男である。 「何故逃げたりしたのです?」 「その………………申し訳ありません」 「私が欲しいのは、謝罪ではなく理由です」 「〜〜〜〜〜それ、は……」 言葉に詰まり俯く少女に、クルーゼは溜息をつく。そして、おもむろに彼女の身体を担ぎ上げた。 「――なっ!?」 長身の軍人の肩にひょいっと乗せられたコーディネイターの平和の象徴は、驚きのあまり絶句する。 「丁度良い。あなたにお話があったのですよ。 まずは部屋へ行きましょう」 「じっ、自分で歩けます」 「また逃げられては適いませんから」 ラクスは最前の行動があるので反論出来ず、一瞬、じたばた動かしていた足の動きを止める。クルーゼはそのわずかな隙に、スカートで覆われたラクスの細い足の膝の裏あたりに左手を添え、右手で肩に乗せた彼女の身体を支える。 「お、降ろして下さいませ。人に見られたらどうしますのっ?」 「そんなヘマは致しませんよ」 精一杯の抵抗をあっさりと封じ込め、クルーゼは悠々と移動を開始する。 ラクスを担いでいる右肩が温かかった。 部屋までそれほどの距離はなく、誰にも見つかる事無く無事に二人は到着した。 入室すると、一拍置いてから重力が掛かる感覚が襲ってくる。 ずしりと肩に掛かる重さが、心地良い。 普通の重力設定がされている場でも、ラクスは軽かった。 「降ろして下さい、クルーゼ隊長」 道中諦めて黙っていたラクスが、やや不機嫌そうに言う。 「嫌だと言ったら?」 「――降ろして下さい」 再度やや硬くなった声で言われ、男は渋々と少女を解放する。 ラクスの白い頬は、赤く染まっていた。 「クルーゼ隊長、ひとに強引だと言われた事はございません?」 「ありませんね」 クルーゼはしれっと答える。 思っても、口に出すある意味勇気のある愚か者はいないだろう。 ラクスは気持ちを静めるように深呼吸し、落ち着いてからクルーゼを見る。 その間、ほんの数秒。 純情な少女の顔は消え去り、そこには大人と対等に渡り合う冷徹な娘の顔があった。見事な切り替えだと感心する。 「何か?」 じっと見詰めてくるクルーゼに、ラクスは小首を傾げて尋ねる。不審そうな色が微塵もない辺りが、彼女らしいところだった。 「いえ」 言いつつ、仮面を外す。 別にわざわざ外す必要もないのだが、外した瞬間の彼女の反応が面白いのでわざとやっているクルーゼである。 ラクスはクルーゼに椅子を進め、彼が仮面を置きながら座ると自分も座る。 「それで、先程はどうして逃げたのかお聞きしてもよろしいか?」 見慣れない男の素顔に、せっかく平静に戻ったラクスが少々困った様子になっている。クルーゼはその反応に満足しつつ、表に出す事なく彼女の答えを待った。 「そうですわ! ハロが、ハロがいなくなってしまいましたの」 「ハロ? あのロボットですか?」 質問とは微妙に違う答えだったが、ラクスの真剣な様子にとりあえずクルーゼは言った。 「そうです。わたくしの大切な友達です。 いつものようにお部屋を出ていったのを追いかけていたのですが、見失ってしまいましたの……」 しゅんとうなだれる姿は、年より幼く見える。 「それであのようなところまで?」 問えば、こくんと頷く。 これほどあどけない彼女は珍しく、クルーゼはハロという愛玩ロボットに対する認識を改める。思ったより、あのロボットはラクスの中で大きな存在のようだ。 「戻ってこないのですか?」 「近く居ればわたくしと他の方を認識してくれますが、遠く離れてしまうと……迷っていると思うのです」 「では探させましょう。あれは目立ちますから、すぐ見つかりますよ」 「それは駄目ですわ。 皆様はお仕事中ですもの。ご迷惑はかけられません」 こういったところは変に遠慮する少女だ。 妙にキッパリと言い切った彼女に、クルーゼは苦笑する。 「けれど、あなたが探す事は許可出来ません。これから艦内も忙しくなります」 「どういう事ですの?」 「あなたをプラントまで送る部隊から連絡が来ました」 自分に大きく関わる事を言われたせいか、ラクスの顔が一瞬で大人びる。 全ての事態に冷静に対処しようとする顔だ。 「――では、予定通りですのね」 これまで、それなりの見通しは伝えてきている。ラクスはただ頷いただけだった。 「はい。後半日も掛からず合流出来るでしょう」 「そうですか」 声には、様々な感情が交じり合っているように聞こえた。 「不都合でも?」 「いいえ、ありませんわ」 しかしその顔はどこか寂しげで、薄い微笑が顔に張り付いている。 「あなたを外に出せない理由がお分かり頂けますね?」 別の部隊と合流するのだ。それなりの準備がある。この状況で、ラクスが部屋から外出などとんでもない話だ。 クルーゼの言葉でそれらの事を瞬時にして悟ったラクスは、苦しげに息を吐く。 「私共にお任せて下さい」 「――お願いします」 友達を自分で探せぬ事は気がかりだが、わがままを通せる場ではないと判断したらしい。重ねて言われ、プラント評議会議長令嬢は深々と頭を下げた。 ラクスは溜息をつき、自分を見詰め続ける男の視線に気付いてやや頬を赤くする。 「その……先ほどあなたを見て逃げた理由なのですが」 とうとう白状する気になったのか、しどろもどろに言い始める。珍しく歯切れの悪い彼女の言葉を、クルーゼは大人しく待った。 「ハロを探していたのは違いないのですけれど、ふとあなたがどうしているかと思いまして……そう思っていたところにあなたがいらっしゃったものですから、びっくりしてしまったのです」 「……それで、逃げたと?」 驚きのあまり、少し変な言い方になってしまった。 「考えていた方がいきなり目の前に現れたら驚きません事?」 クルーゼの言い方に何を思ったのか、少しだけ硬い声でラクスは応じる。 「失礼。気を悪くされたのなら謝ります」 意外な言葉が、嬉しかった。 彼女が自分の事を考えてくれて、ただ嬉しかった。 それだけだ。 あっさりと謝罪したクルーゼに何を持ったのか、ラクスはやれやれと微笑する。まるで子供を見る母親のようだ。 「ヴェサリウスはこの後どうなさいますの?」 ふと、ラクスが尋ねた。 「本来の任務に戻り、"足付き"を追います」 「そうですか……」 先程と同じ言葉は、打って変わって深い憂慮が込められ、ラクスはきつく眼を閉じる。 何も言わない。 しかし、何かを思う。 筋の通った理由を付きつけて戦闘を中止させた少女は、これから先起こるであろう戦いを正しく予想しているだろう。 「ご武運をお祈りしております」 ようやく紡ぎ出された言葉は、やや掠れた囁きだった。 平和を愛する彼女は、所属に関わらず人のいのち生命が失われる事に心を痛めるのだろう。 「神のご加護があらん事を」 それはどちらに向けられた言葉なのか。 普通に考えれば自軍へのものだと解釈するだろうが、捻くれているクルーゼはそうは思わない。 少女の性格を考えれば、恐らく両軍に向けられているはずだ。 矛盾しているが、そういう娘なのだと、半ば確信に近い予感がする。 「信じてもいない神より、あなたの祈りの方が余程心強いというものですな」 「わたくしの……?」 「そうです。 どうぞ私に―――私の隊とこのヴェサリウスに、 クルーゼは小さく頭を下げて請い、しばしラクスは身動ぎせず、やがて机に置かれたままになっていたクルーゼの仮面を手に取った。 壊れ物を扱うかのように、恭しく顔の高さまで持ち上げる。 仮面の持ち主はその行動を黙って見守る中、彼女はそれに額をつけた。 「どうぞご無事で」 厳かな呟き。 込められたのは、言霊を操りさえしそうな歌姫の祈り。 プラントを――ひいては自分を守ってくれている戦士達へ、限りない感謝と労りを。 宇宙に――地上に散っていった、数え切れぬ魂に、冥福と安らぎを。 彼女が、傷つきながらも持ち続ける想いを。 誰に何を言われようとも、決して捨てない願いを。 ラクスの全身全霊の祈りを受け取った仮面は、静かにまた机の上に置かれた。 「これで、よろしかったでしょうか?」 少しだけ不安そうに、ラクスはクルーゼを見上げる。 「十分ですよ」 置かれたばかりの仮面を手に取りながら、男は答える。 人の愚かさを知り、弱さを知り、それでもなお、諦めてはいない少女。 見せられる純粋さが、あまりの綺麗さが、クルーゼには眩しい。 普通なら、おめでたいのか馬鹿なのか、そのどちらかとしか思えなかっただろう。だが、何故か彼女をそうは思わない。 何一つ見逃さず、真実を見据えるその聡明さを知っているからだろうか。 いずれにしても、疑問の答えは出ていない。 「次に会える時を楽しみにしています」 言いつつ、クルーゼは仮面に口付ける。 彼女の思いがこめられたそれへ。 まるで彼女にするように、艶めかしく愛しそうに。 行動で、"答え"を要求していた。 「……ラウ様」 これで何度目かの呼び方に、クルーゼは顔を上げる。 予想に反し、少しだけ顔を赤くしただけのラクスは、相変わらず静かな表情だった。 「わたくし、頑張って考えますわ。きちんと答えを出します」 ゆっくりと紡がれる言の葉。 それはひどく甘美に、鼓膜を震わす。 「ですから、あなたもどうかお考えになってください。 わたくしが欲しいのは、真実あなたの求めるものであるか」 「?」 「手に入らないものだからこそ、焦がれているのではないかと」 賢い娘だ。 クルーゼの中にある小さな懸念を、しっかり見抜いている。 ラクスが欲しいと――愛しいと思っているのは事実なのに、時折分からなくなるのだ。 手に入らないから、ここまでも望むのではないかと。 彼女が振り向いた瞬間に、もういらなくなるのではないかと。 「――熟考しましょう」 笑みが歪んでいなかったか、クルーゼはやや自信がなかった。 移動の為のシャトルの入り口で、婚約者に誘導されて現れるだろう彼女を待ちながら、クルーゼは奇妙な感覚を覚えていた。 最近感じなかったもの。 あまり好ましくない感情――それは寂寥だ。 人の気配と空気の動きが、クルーゼの思考を現実に戻した。 視線を動かせば、雛人形のようにお似合いの少年と少女がこちらへ移動してきたところだった。 さすがに、対の遺伝子を有していると言われるだけの事はある。二人が並んでいる姿は、まるで絵のようにピッタリ様になっている。 自分が望む事は、これを壊す事なのだと改めて実感した。 「クルーゼ隊長にも色々とお世話をかけました」 少女の柔らかな、しかし実際には一分の隙もない口調が、クルーゼの意識を"通常"へ――"戦場"へ戻していく。 目の前に居るのは、恋に慣れない少女ではない。 己の立場とその影響力というものを充分に理解し、最も効果的な言葉を口にする事が出来る、侮れない娘だ。 「お身柄は、ラコーニが責任を持ってお送りするとの事です」 だからクルーゼも、油断せずに答える。 こんな時の彼女には、わずかな隙も見せられない。 「ヴェサリウスは追悼式典には戻られますの?」 「さあ、それは分かりませんが」 戦局からすると、そんなものに出席している場合ではないのだ。 死者を悼む儀式は、残された者が生きる為にする事だ。亡き者に時間をかけるよりも、明日の為にしなければならない事がある。 少なくとも、クルーゼはそう思う。 「戦果も重要な事でしょうが、犠牲になる者の事もどうかお忘れ無きように」 「肝に銘じましょう」 まるで命がけの勝負をしているような気分を覚える。 自分というものを知った上で、存分に効果を引き出すその狡猾さを、どこで培ったものやら。去り際に牽制していくとは、全くもって油断ならない小娘だ。 「何と戦わねばならないのか、戦争は難しいですわね」 「あっ……」 部下がわずかな声を漏らしたのを、クルーゼの耳は聞き逃さなかった。 少年には少年の思うところがあるのだろう。 自分にもあるように。 少女にもまたあるように。 「ラクス嬢、お探しのロボットです。お渡ししておきますよ」 「ありがとう」 部下が探して届けに来たピンク色のロボットを手渡すと、ラクスは一瞬だけ無防備に微笑む。ロボットがどこにも行かないようにしっかりと握り締め、彼女はシャトルの入り口へ身体を向けた。 「では、またお会い出来る時を楽しみにしておりますわ」 その場にいるザフト兵の心よりの敬礼を受けながら、ラクス・クラインは典雅に戦艦を後にした。 歌姫が起こした波紋は、小さく大きくクルーゼの心を揺さぶる。 吉となるか凶となるか。 この先どうなっていくのか。 それは、彼にも分からなかった。 |