彼女の手は音楽を紡ぐ手。



ゆびは歌う



 全身がぬるま湯に浸かっている。
 それはバスタイムの時とは違う不快な感覚で、レンは目を閉じたままゆるりと身動ぎをした。
「……?」
 暗かった視界が開ける。一瞬ここがどこか分からなかったが、すぐに恋人の家のソファーだと思い至った。
 予定外に正午で仕事が終わり、連絡を入れた春歌も午後早くには帰宅するというので彼女の部屋に合鍵で帰宅したのだ。
 誰もいない部屋は静かで開けた窓からの風が心地良く、睡眠不足の今日の疲労も重なってソファーで横になったあたりから記憶が途切れている。うたた寝をしてしまったらしい。
 身を起こすと首筋を汗がたらりと伝う。まだ身体に残る、眠りから覚醒する直前の嫌な感じは、気温の上がったせいで体温もそれに倣ったからのようだ。いつの間にか風もずいぶんと弱くなっている。
 外の太陽光が明るすぎて逆に暗い室内を、白のカーテンが光を孕んでふわりと翻る。見慣れた部屋のはずなのに息を呑んだ。幼い頃に教会のステンドグラスをはじめて見た時のような、荘厳なものを目にした驚きに近い感情を覚える。
 そして大きく膨らんだそのカーテンの向こうに、愛しい少女がいた。
 難しい顔をしてテーブルの上のなにかを見ている。
「ハニー?」
「あ、おはようございます、ダーリン」
 声をかけると春歌はぱっと顔をあげ、やわらかな笑顔で挨拶をくれた。控えめにスリッパの音を立てて近付いてくるとついと眉間に皺を寄せる。
「汗かいちゃってますね。ごめんなさい、クーラーをつけていれば良かったです」
「大丈夫だよ。クーラーつけないで寝てたのはオレだからね」
「タオルを持ってきます。それともシャワーを浴びられますか?」
「お言葉に甘えてシャワーを浴びようかな」
 汗でベタついた身体は確かに不快だったので、春歌の提案に素直に頷く。
 右手でやや鬱陶しく感じる前髪をかきあげつつ、彼女がさきほど見ていたものに目をやった。
 色とりどりの小瓶がいくつかに、大き目のプラスチックボトル。前者を見れば何であるかはすぐに分かる。
「ネイルをするのかい、ハニー」
 今まで彼女の爪が伸びたところも彩られたところも見たことがないからか、ついそう訊ねてしまう。
「この前お化粧品のCMのお仕事が終わった時に、メーカーの方がサンプルをくださったんです。トモちゃんに似合いそうなので渡そうとしたら、私が塗るの? ってなぜか感激した様子でお手入れグッズや除光液を揃えてくれて……」
 首を竦める春歌は恐縮した様子だが、レンには彼女の元ルームメイトで親友の、現事務所仲間の気持ちの方がよく分かる。
 春歌は可愛らしい容姿をしているのに地味めな装いが多いから、周囲としてはつい構って飾りたくなってしまう。そんな彼女が自分からファッションのものに手を出したなんて耳にすれば、驚きと喜びで色々と手を出したくなるだろう。
「するのもいいと思うけど。きっと似合うよ」
 レンよりふたまわりも小さな彼女の手を掬いあげ、細い指に口付ける。すると春歌はたちまち頬を真っ赤に染め、ブンブンと首を横に振った。
「あ、で、でででも、私の爪はいつも短く切ってしまいますし!」
「楽器を弾く手だからね」
 彼女の爪は常に深爪に近い短さをしている。扱うものは違えどレンも演奏者の端くれ、手や指には気を使っているので春歌の習慣は理解できる。ネイルをしないのも感覚的なこだわりかと思っていた。
「だから無理にとは言わないから、もし気が向いたらやってみるのもいいんじゃないかな」
 音楽の邪魔にならないのであれば春歌の新しい一面を見てみたい。そんなささやなことがとても嬉しいのだと、彼女と付き合いだしてから知った。
「そうですね……」
 自身も全く興味がないわけではないのか、大きな目でじいっとマニキュアの小瓶を見詰めている。けれどすぐにレンに向き直り、汗が冷える前にシャワーをと促してきたので素直にそれに従った。


 数日後。雑誌撮影の休憩中に携帯を確認していると、春歌からのメールが届いていた。
 珍しく写真が添付されており、なんだろうと開いてみると淡いピンク色で彩られた彼女の左手の爪が。
 きっと五本映そうとしたのだろうが小指が見切れている。彼女はあまり携帯での写真撮影が上手くない。そんなところも微笑ましい。
『なんとか塗れました。はじめてなのに上手だって友ちゃんが褒めてくれたんですよ!』
 うきうき笑う春歌の姿が思い浮かぶようでレンの頬も自然と緩むのが分かる。  元々が器用なためか、確かにはじめてとは思えないほど綺麗な塗りあがりになっていた。
 もしかしたら、あまりしないだけでメイクやネイルの作業は春歌の言う「一人で出来るので得意」という納得しづらい分類のものなのかもしれない。
『とても可愛いよ。オレも早く君に会って、本物のその手が見たいな。仕事が早く終わりそうなら――』
 そこでノックの音が大きく響いた。
「神宮寺さん、すみません。ちょっとスケジュールの変更があって」
「はい」
 仕方なくメール作成は途中保存し、レンは立ち上がる。なんとなくだが今日の撮影は長引きそうな気がした。

 悪いことに予想は見事的中し、夕方くらいには終わるかと思った仕事は夜中まで続いた。
 内容的には次に繋がりそうなことでもあったので、アイドル・神宮寺レンにとってはプラスかもしれない。
 ただ今日は春歌に会えるかもしれないと少し期待していたせいか、その分のがっかりが肩に重たくのしかかる。
 深夜2時。春歌は起きているだろうか。互いに毎日決まった時間で動く仕事ではないので、余計にそんな風に考えてしまう。
 こういう仕事だから、せめてメールだけは時間帯を気にせずにメールをしようと二人の間で話し合って決めている。見られる時は見るし、無理な時は見られない。
 その約束通り、レンは自分の感情に逆らわずに作成途中だったメールを開いて書き直す。
『とても可愛いよ。オレも早く君に会って、本物のその手が見たいな。仕事が長引いて今帰ってきた』
 寮のエントランスホールで送信ボタンを押して、エレベーターで自室のあるフロアへあがる。身体にかかってくる重力が今日はやけに大きく感じられる。
 かすかな振動でエレベーターは止まり、静かにドアは開いた。
 目が無意識に春歌の部屋の扉へ向かう。寮の部屋は同じデザインのはずだがレンにとってそこだけは違うもので、なんとなく視線を逸らしがたく眺めているとドアがカチャリと中から空いた。
「え……?」
「あっ、ダ……神宮寺さん」
 片手に携帯を持った春歌が笑顔でおかえりなさいと言ってくれる。会えないと思っていた恋人の出迎えに胸の奥が温かくなった。
 そそくさと近寄り、廊下ではいつ人がくるか分からないからと迎え入れてくれる彼女に甘えて部屋にお邪魔する。しかしこんな時間で、明日の仕事が早いこともあって、レンは自分の感情を抑えて玄関口からは上がらないことを選んだ。
「こんな時間にどうしたの、ハニー。会えて嬉しいけど、もう2時過ぎてるよ」
「急ぎのお仕事を頂いて作業を始めるところだったんです。そうしたらメールを頂いたので」
 出てきちゃいました、とはにかみ笑う彼女に心臓のあたりが温かくなる。
 確実に忙しいだろうに少しでも会いたかったと行動で言ってくれることが、どれだけレンを喜ばせるか春歌は知らないだろう。
 緩む頬を見られたくなくて、彼女の額に口付けることでそれを隠す。跳ねた肩をなだめるようにその後頭部に手を回し、手触りのいい髪の毛を梳く。
「ダーリン」
 春歌のうっとりとした声に理性がぐらつく。小さな力で胸元を握られたのも感触で分かって、もっと強く彼女を抱きしめたくなった。
 けれど。
 そうレンの脳裏をよぎったのと同時に、春歌が身じろぎしてそっと身を引いた。
「……さすが、オレのお姫様だ」
 そういう自分の顔と、見下ろす彼女の顔は少し歪んでいる。
 もっと一緒に居たいのは同じ。しかし仕事を抱えているのもまた変わりがない。するべきことのための我慢を、自分たちは知っている。
「お仕事してきます」
「うん。オレもそろそろ帰って明日に備えないと」
名残惜しさは振り払えずに視線が漂う。ふと、彼女の手――その爪に目がとまった。
「ハニー、その爪」
「はい?」
「ネイルしたんじゃなかったの?」
春歌の短く切り揃えられた爪は、見慣れた素の色をしている。今日の写真で見た色合いはそこになかった。
「お仕事を頂いてピアノに向かい合ったら、なんだか急に重たくて息苦しい感じがして落としてしまったんです。ああ言ってくださったのにごめんなさい」
 眉の八の字にして春歌が答える。あまりにも申し訳なさそうなその様子に、自分の少しの残念さよりも先に苦笑してしまった。
「そんなに気にしなくていいんだよ、ハニー。確かにネイルをした君を見たかったけど、今は仕事に関わる君の感覚の方が優先だ。そうだろう?」
「はい」
 頬を指でくすぐって促せばようやく小さな笑顔が返ってくる。潮時を悟って、レンは表面にあまり出さないようにしながらまた一歩春歌から遠ざかる。
 冷たいドアノブに手をかけて、自分をまっすぐに見上げる彼女に心からの挨拶を送る。
「それじゃあ頑張って、ハニー」
「ありがとうございます。……おやすみなさい、ダーリン」
 やわらかに挨拶をくれる彼女に笑いかけて、これから作業にかかるであろう作曲家へ眠りの言葉はあえてかけず、彼女の部屋を後にした。

 視界の隅で、バックミュージシャンの爪がスタジオのライトで光るのが見える。
 スタイリストの指示か衣装に合わせたのか、場にもマッチしている華やかな彩りだと認めてから、見られなかった春歌のネイルのことをレンは思い出す。
 あれからなんとなく人の手元に目がいっている。この間などは同期の翔の爪を眺めて気持ち悪いとクレームを入れられてしまった。
 音楽番組の収録を終えて控室に戻りながら、すれ違う人間の爪にさりげなく視線を投げる自分を自覚しつつ、脳裏に描くのはやはり愛しい彼女のこと。
 先日の急ぎの仕事をやり遂げ、すぐに次の仕事に取りかかったとメールをくれた春歌だったが、その後連絡はきていない。根を詰めてると寝食を忘れる彼女が少し心配だ
 食べることも眠ることも、なにもかもを置き去りにして音楽に没頭する春歌だから、それの邪魔になるだろうマニキュアはもうやらないかもしれない。
 音楽に関することに関して、あのお姫様は潔癖であり頑固であり貪欲だ。妨げになるのであればさらりと身を引くような気がする。
 すぐに浮かぶのは春歌の五線譜を繰る手。白鍵を叩く皮膚の固くなった指先が、黒鍵を弾く白い爪先が好きだ。
(ああ、触りたいな)
 ぽんと胸の奥に浮かんだ素直な気持ちに、ゆるりと瞼を落とす。
 結局行き着くのは春歌に会いたいという希求なのだ。
 今日の残りのスケジュールを頭の中で振り返って、辿り着いた控え室。鞄の中に入れていた携帯電話を取り出してメール作成画面を開く。
 愛しい彼女に出来ればすぐに気付いてもらえるようにと願いながら。

 それから春歌に会えたのは三日ほど後のこと。
 レンは予定通りに休みの日で、昨日納期を明けた春歌が部屋にやって来る約束になっている。
 彼女の来訪があるからと軽く部屋を掃除していたのだが、電気を付けておらず今日も外の日差しが強いせいで却って部屋の影が濃い。まるで春歌の部屋で転寝をした日のようだ。
 なんとなく落ち着かない心地でそう上手くない家事を終わらせ、腰を落ち着けようかとしたところにタイミング良くチャイムが鳴った。
 念の為にドアホンで来訪者の顏を確認して、すぐに玄関まで行ってドアを開ける。
「いらっしゃい、ハニー。入って」
「お邪魔します」
 夏らしい青と白のマリンボーダーをあしらったワンピースの春歌が、爽やかさを纏ってレンの家に足を踏み入れる。リビングに到着したあたりで、ここ最近の癖で彼女のバッグを持った手に目が留まり、驚いた。
「ネイル?」
「はい!」
「だってこの前、息苦しいって」
 記憶に新しいその感想をレンが口にすると、春歌は首を縦に振る。その頬が赤く染まったかと思うと、少しだけ表情をキッと変えて彼女は力強く言った。
「わ、私もその、レンさんの前では少しでも綺麗で可愛くいたいんですっ。それに」
 言葉を切った春歌がその両手をレンに差し出す。反射的に手を取ると、天井のライトでラメ入りのオレンジ色のマニキュアが光った。
「このマニキュアの色がまるでレンさんの髪みたいで、塗ったら嬉しくなってずっとつけていたくなりました。たぶん次のお仕事までだって分かっているんですけれど」
 最後のそこは付け足さなくてもいいんだよ、とどこか頭の片隅で思ったけれども、それよりもあまりに心震わせる言動にレンはいてもたってもいられず少女を抱きしめた。
 この生き物はなんだろう。
 ばくばくと音を立てる心臓が痛い。愛しさや嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って破裂していて、もう訳が分からない。
「君って子は……」
 この前出来なかった力一杯の抱擁。いつもはコントロールしている力の加減がやけに難しい。自分がとても喜んでいるのが分かる。
 音で満たされている春歌にレンもしっかりと存在しているのだと、そう言われている気がした。
「そんなに嬉しいことばかり言ってオレをあまり困らせないで。心臓がもたないよ」
 降参宣言に近いレンの囁きに、彼のミューズは目を瞬いて。
 そしてふわりと笑った。


 彼女の手は音楽を紡ぐ手。
 大切なそこにレンの色は確かに存在していた。





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