珍しく静かなリビングの。
 綺麗に片付られたテーブルの上。
 それは、きちんと畳まれて鎮座していた。



005:手袋



 一つの汚れもしみもない、真っ白の手袋。
 誰のものかと思い巡らせば、すぐに答えは返ってくる。この家の住人は多く、外からやって来る者も多いが、このように特徴のあるものを手にしているのは限られていた。
「オラトリオの、よね」
 クリスは置いてあるそれを、一応確認してみる。
 あまり大きくない少女の手には余る手袋は、比べてみると一関節分も長かった。
「あいつ、そんなに手大きかったかしら」
 触り心地の良い手袋を撫でながら、クリスは頬に右手の指を当てて首を傾げる。いつもお茶らけて軟派してくる姿ばかりが彼女の中の<A-O>ORATORIOの印象で、細かな手の大きさなどは認知外の事だった。
「おんや、クリスお嬢さん」
 リビングの扉は開けっ放しになっていて、加えて足音もなかったので接近の察知は出来ず、クリスはつい驚いて過剰に肩を揺らしてしまう。
「驚かせないでよ!」
「すいやせん。音がしないんで誰もいないかと思ったんですよ」
 しおらしく謝りながら、オラトリオは注意深くリビングと目の前の少女を観察する。そんな視線を向けられ、また無視する事に慣れているクリスは、今回は流す方を選びキッチンへと入っていく。
「オラトリオ、紅茶入れるけど飲む?」
「お嬢さん手ずからの紅茶を断る男など存在しやせんて。頂きます」
 コンロが使用される音や食器の擦れる音がして、火を使用している時の特有の空気の湿り具合が感じられる。オラトリオはキッチンへ向かう事無く、テーブルに納まっていた椅子を引き出して腰を落ち着けた。
「信彦達はどうしたの?」
「遊び疲れてぐずりだしたんで、寝かしつけました」
「だから静かなワケね」
 久々に音井研究所にやってきたオラトリオは、調整が済むと待ちかねていた信彦とちびシグナルに捕まり、面倒見が良い彼は律儀に子供達の遊びに付き合っていた。
 三人が仲良く遊ぶ姿を見ていたクリスは、今は一緒にベッドの中にいるだろう2人を簡単に想像してしまい、くすくす笑う。
「ご苦労様」
 あまり労わりの情がこめられていないそれにオラトリオは小さく笑い、長兄の義務っすよ、と続けた。
 大財閥のお嬢様ではあるが家事の上手なサイン嬢の紅茶を恭しく受け取ったオラトリオは、正面に座ったクリスが手にしている、そもそもここへ来た理由の手袋に気付き、彼女もそれ気付いてああ、と頷いた。
「テーブルの上に置いてあったわよ。
 珍しいわね、あんたが自分の装備品を外すの」
「信彦達に折り紙しろってせがまれましてね。日本のあの遊びは奥が深いですわ」
「ああ、あれね。あたしもこっちに来て初めての頃は苦手だったわ。あいつらに付き合わされて上手くなってきたけど」
 今では鶴も折れると肩を竦める彼女の顔は、愛しい弟を持つ姉のそれ。
 普段の強気な表情も、研究室で見せる一端のロボット工学者の理知的な表情も美しいけれど、オラトリオは、信彦やちびシグナルの「お姉さん」をしている彼女の顔がとても好きだ。
 どんな顔よりも柔らかい。
「ねぇ、あんたって手大きいのね」
「はい?」
 いきなり何を言うのだろうとオラトリオが訝しげな顔をすると、クリスは手の中の手袋を広げて弄う。彼女は不思議そうな顔をするロボットの顔を眺めて楽しむと、手袋と自分の手を重ねた。
「ほら。これとあたしの手を比べてみたら、笑えるぐらい余ってね。あんたの手って大きかったんだなって改めて思ったのよ」
 クリスは畳みなおした手袋をオラトリオに渡し、もらった彼は自分の手に目を落とす。
「まぁ、このガタイですからね。見合うだけの大きさはありますわ」
 ひらひらと手袋をしていない手を振ったオラトリオは、好奇心を隠さないで興味津々に見てくる少女に苦笑し、そちらへ手を伸ばす。
「どうぞ。煮るなり焼くなりご自由に。お嬢さんに食べられるなら本望ですわ」
「何言ってんのよ」
 ふざけて真面目に言うロボットにクリスは呆れたような言葉を返すも、行動の方はしっかり彼の手を取っていた。
 滑らかな人工皮膚の手触り。
 ほのかに感じる温かさ。
 数々のメンテナンスで、たくさんの人間形態ロボットに触れてきたが、その誰よりも大きく、男性らしい骨っぽさがある。
 クリスがロボット工学者でなかったら、彼が人ではないとは分からなかっただろう。

 触れて突付いて引っ張って。
 そんな事を一通りこなしたクリスは、最後に掌と掌を合わせて大きさ比べをする。
「やっぱり」
 くすくすと無邪気に笑う少女。
「一関節分も違う」
 大人と子供ほどの違いでは無いけれど、そこには明確な差が存在する。
 それは、「男」と「女の」違いだ。
「クリスの手も、"やっぱり"工学者のそれだな。傷だらけだ」
 重ねていた指を絡ませて自分の方へ引っ張ってきたオラトリオは、誇らしげに笑う彼女を確かめてその指に口付ける。
「この手が、俺達を造り、生かし、殺す」
 口調の変わったオラトリオの行動に、クリスは珍しく何も言わなかった。
 いつもと似て非なるロボットの振る舞い。
 ロボット工学者の卵で、ロボット心理学者でも古い付き合いでもないクリスは、その行動から何かを読み取る事は出来ない。
 だから、聞くしか出来ない。
「何かあったの?」
「いいえ〜」
 へらりと疲れたように笑うロボットに、クリスは冷たく「嘘」と言った。
「嘘をつくなら、人に聞かれないで済むぐらいに上手につきなさい。慰めて欲しいなら、あんたの相棒のとこに行けば良いでしょ。あたしはしないわよ」
「きっつー。傷心のオラトリオ君に優しくしてやろうというお心は?」
「ないわよ、そんなもん」
 クリスはすげなく言いつつも、この無敵の守護者がこうやって弱音を吐く姿に驚いていた。
 彼は決して弱味を見せない。
 彼は守るもの。その為には容赦なく他を切り捨てるもの。
 故に、隙となる甘さや弱さはよほどの事ではない限り見せはしない。
 何があったのだろうとは思いつつも、きっとオラトリオはこれ以上口を割らないだろうと分かってもいる。
 だからクリスは、やれやれと溜息をついた。
「情けない顔をしてるわよ。パルスとシグナルに見られないようにしなさいね。馬鹿にされるから」
「へーい」
「信彦にもよ。心配されるから。あの子は聡いからね」
「へいへい」
 内容こそ厳しいものの、少女の口調は驚くほど優しい。
 テーブルに顔を伏せ、右手だけ振って答えていたオラトリオは、髪を撫でられる感触に目だけを上げた。
 いつの間にか、クリスが隣に回っている。
「……情けないな」
「たまには良いんじゃないの? ロボットだって好不調があるわよ」
「そういう事にしておいてくれ」
 ゆるゆると息を吐いたオラトリオは、身体を起こしてまだ撫で続けているクリスの腕を取り、彼女の正面から見上げた。
「抱き締めても良いかい?」
 普段の陽気さを隠し、恐る恐る了承取るロボットに、クリスはわざとらしく偉そうに胸を張った。
「しょうがないわねぇ。高いわよ」
 そう言いながら、少女の手は彼の肩に置かれる。
 優しい感触に、オラトリオはそっと笑った。
「そりゃ怖い」
「当然。あたしは天才美乙女ロボット工学者クリス・サインよ」
 彼女を承諾を得て、眉根を寄せる大きなロボットは綺麗に笑う小さな少女を抱き締めた。


「おじょーさん。
 俺とデートしませんか?」
「誰があんたなんかと!」
 しばらくして交わされた2人のやり取りは、ひっそりと甘かった。




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