『理事長Jr』
 いつ頃からそう呼ばれ始めたのかは分からない。しかし、学校の生徒達は皆そう呼んだ。
 苗字でも名前でもなく。
 理事長の子供、と。

 誰一人として、"高ノ瀬茉利"を見る者はいなかった。



006:呼ばれ方



 人間、時として訳のわからぬ不機嫌や、ローテンションに襲われるものである。
 それを好きな者はいないだろう。
 少なくとも、茉利は好きではない。
「…………はぁ……」
 溜息を音にしてまで排出する。
 何度やってみても胸の重みはとれず、それがますます溜息を誘う。

 何をするにも集中力が続かず、ぼんやりしてしまう。
 授業を受けるのも億劫だったが、まさか「理事長の娘」がさぼる事など出来るはずもなく、ようやく終えて屋上に逃げてきた。

 何をするにも付き纏う、「理事長の子」というレッテル。
 良い事などひとつもない。
 母を嫌いという訳ではないのだが、時折、親子という関係を疑ってしまう。

「ダメだなぁ……」

 揺らぐ自分。
 とても弱い。


「理事長Jr」
 呼びかけは唐突だった。
「……安藤君?」
 驚いた。
 心臓は早鐘のように打っているというのに、あまりにも悪いメンタル状態は驚きを表す事すらしなかった。
 普段なら、飛び上がってしまうだろうに。

「どうかした?」
 聡い彼は、常と違う反応に何かを感じ取ったらしい。
 それが助かる時もあれば、逆の時もある。
「いいえ」
 声は、自分でも驚くほどに冷たかった。

 彼も冷たさを感じたのか、わずかに目を見開く。
 普段の表情の変化からすれば、かなり驚いた部類であろう。
 いつもの自分なら、そんな彼も見れた事に喜ぶかもしれない。だが今の自分では、到底無理な事だった。

「何かあった?」
 同じようで、少しだけ違う問いかけ。
 無駄である事は承知の上で言っているのが察せられた。
「いいえ」
 答えは、やはり冷たい。

「何も……何もないから、私も困っています」
 愚痴めいていた。
 ようやく得られた友達に、ひどい事をしているという自覚があったのに、なぜかこの時の自分はひどくやさぐれていて。

「理事長Jr」

 それは、爆弾の導火線に火をつけるようなものだった。

 いらついているのだろうか。
 どこか固い調子の言葉が、再度「理事長Jr」と呼んだ。

「私は―――そんな名前じゃありません」

 その単語が、自分を指す事は分かっている。
 昔から、そう呼ばれてきた。
 痛いほど分かっている。

 少年を睨むように見据えた少女は、刹那の後、艶然と微笑む。
 その笑みはあまりに妖しく艶やかで、少年は息を呑んだ。

 逃げるようにやって来たはずのこの場も、もう居辛くてたまらなかった。
 茉利はくるりと身を翻し、屋上の出入り口へ向かう――向かおうとして、腕を捕まれ、強い力で引っ張られた。

「茉利」
 耳元で囁かれる、大好きなMUTUKIの声。
 ずるいと、心の底から思った。

 腕の中から逃れようと身を捩るも、成長過程とはいえ男の力でがっちり押さえつけられ、それも叶わない。
「放してください、安藤君」
「だめ」
「安藤君!」
 今度は答えが無く、その代わり戒めの腕の力が強くなった。
 力が強すぎで、息が苦しく身体が痛い。

「そんな顔してるのに放っておけない。お節介でも」
「……」
「少し俺に付き合って。茉利」
 じゃなきゃ放さない、と言外に匂わせて彼は確信犯の顔で強要する。

 茉利は顔を歪ませ、伏せた。


「……ありがとう……ございます」
 ごめんなさいと同義語のそれは、武将の笑顔を引き起こした。


 呼んで欲しい。
 茉利と。


 茉利(わたし)という人間を認めて。




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