「お母さん、ナナミはなんで"ナナミ"っていうの?」 013:抜け殻 幼い娘が無邪気に問い掛けてきて、その母親はぱちくりと眼を瞬いた。 「突然どうしたの?」 「えと、えとね、本屋のおじさんに言われたの。『お嬢ちゃんの名前は、王様のお義姉様のお名前と同じなんだね』って」 町の貸し本屋の主人は、研究者と本の虫が混ざり合ってそういう職業になった人物で、実に多くの事を知っていた。 母親も彼の知識の多さには驚き、今では頼る事もあったので、彼が退位したデュナン国王の、公にはあまり知られていない義姉の名を知っている事には驚かなかった。 「ねえお母さん、ナナミの名前はおかしいの?」 「いいえ。そうではないの。きっと本屋さんは、ちょっと思い出したから言ったんだと思うわ」 「そっか、そうだよね」 普段意識しない自分の名を他人に指摘され、急に変に思ってしまったのだろう。娘はほっとした様子で頷き、椅子に座って縫い物をする母親の膝に甘えた。 「王様のお姉さんは、ナナミと同じ名前だったんだ」 「そうよ。ナナミさんといったの」 「お母さんのお友達?」 「……何で?」 これには、本当に驚いた。まさかそんな風に言われるとは思わなかった。 「ナナミ、何でそう思ったの?」 「だってお母さんのお顔、お母さんが好きな人達のお話する時とおんなじだもん。ナナミね、そんなお母さんを見てるときゅーってなるの」 「そう……」 聡い娘を持った母は、手にしていた裁縫道具を机に置いて小さな身体を強く抱き締める。まだまだ小さな娘は、「きゅーっ」と意味のない言葉をあげて嬉しがった。 娘を膝に抱き、母親はゆっくりと話し出す。 「昔お母さんがナナミぐらいに小さかった頃、ナナミさんに面倒を見てもらっていたの。少しの間だったけれど」 内緒よ、と妙齢の母親は少し寂しげに笑った。 「ナナミさんはその時まだ子供だったのだけれど、お母さんははもっともっと子供だったから、とても大人に見えていたわ。お母さんを守ってくれる人だったから、余計に大きく見えた」 娘に語る口調が、段々と遠く過去に飛んでいく。 母親の優しい茶色の瞳は、過ぎ去った昔を映していた。 両親が彼女や彼女の大事な人達に色々良くしたとはいえ、かつての自分は彼女にとって何の関係もない赤の他人で。 それなのに彼女は、命が危ないという多くの場面で、足手まといの自分を常に守ってくれた。自分の身を省みず。 震える自分を細い腕で抱き、背負って走り、モンスターから守り、敵から庇った。 それがどれほど大変な事か、今自分が幼子を抱えてようやく分かる。 かつて大きく見えていた彼女は、けれど今の自分よりも幼く。 大人達からすれば、自分と同じ子供でしかなく。 そんな人に、自分は守られていた。 「たくさん……たくさん、大事にしてもらったのよ」 今も耳に残る、彼女が自分を呼ぶ声。優しい声。 読んでもらった絵本。 撫でてもらった頭。 落ち着けるようにと背中を叩いた、少し硬くて傷のあった手。 抱き締めてくれた腕。 確かにあった愛情。 自分も辛かったであろうあの時ですら、彼女は自分を……他者を思っていた。 「ナナミと同じ名前のナナミ様は、今どこにいるの? ナナミ、お母さんが大好きなナナミ様に会ってみたいな」 無邪気な娘の言葉に、過去から現実に引き戻された母親はとうとう涙する。 何故。 何故あなたが、死なねばならなかったのでしょう。 彼女の死は、あの白いお城にいた自分にも届いて。 その死に喜ぶ、兵士の姿は目に焼きついていて。 もう一人の父とも言える、彼女の敵国の王となった彼は――彼女を最も愛していた彼は、王でいる事が出来ずに涙した。 ねえ、どうして。 どうしてあなたが、死なねばならなかったのですか。 何かが壊れた音のしたあの日から、問う相手のない問いは今も繰り返す。 「お母さん? お母さん? 何で泣いてるの? ナナミはいけない事を言った?」 「違う、の。違うのよ、ナナミ。ナナミは悪くないわ」 優しい人。愛しい人。 あなたが去った今も私は生き。 私はあなたに――あなた達に生かされたのだと、理解するようになりました。 「ほらナナミ、見て。お城が白く輝いてる」 鼻を啜る母親が窓の外を見、娘もそれに倣う。 かつてハイランドという国の皇都があったこの街は、いまだ崩れたままの城が残されていて。この家からは、その城の姿が見えた。小さな窓だが、復興した都が待望出来た。 「綺麗ね。 みんな綺麗ね」 見える城、見える空、見える雲、見える街、見える人。 全てを透明な瞳に映しこんだ幼子は、同意を求めるように大好きな母親を振り返る。 涙を拭った母は、どこかに痛みを宿しながら微笑んだ。 『綺麗だね。 みんな綺麗だね』 幼い自分を膝に寝かせながら、噛み締めるように自分に言い聞かせるように言ったあなた。 「ナナミの名前はね、その人からもらったの。 強くて優しい素敵な人だった。ナナミさんみたいになってほしくて、お母さんがつけた名前なの」 あなたが与えてくれたものを、私は覚えています。 どうか。 与えてもらったたくさんのものが、私が誰かに伝えられますよう。 「ナナミ、ナナミって名前大好きだよ。お母さんが大好きなナナミ様も大好き!」 母親――ピリカは、娘の少し強引な言い分に"彼女"を見て、今度は心から笑った。 抜け殻=存在していたものの残滓 |