「僕から、あの人を取らないでね」
 軍主はぞっとする子供の顔をして、笑った。


016:3人でいるということ



 忙しいはずの軍主は、たまにふらりと石版の前――つまりは、ルックの定位置へとやって来る。そういう時の彼は、決まってどこか遠い瞳をしていた。
「何? 何か用?」
 好まない来訪を受けたルックのお決まりの台詞に、リオウの眼の焦点が戻ってくる。ルックは、何度目か数える事を忘れたやり取りに小さく溜息をついた。
「ナナミ知らない?」
「……洗濯しに行った」
 先程ここへ寄った、ルックの唯一の友と呼べる少女の行動を教えてやれば、なぜか彼は不機嫌そうな顔をした。
「なんで僕がナナミの行動を知らないのに、ルックが知ってるのさ?」
「今日のあんたは朝から会議でナナミに会わなかったからだろ」
 朝に弱いあの子が早朝会議なんて、とここで心配そうに言っていたナナミの姿が脳裏に蘇る。その彼女に毎朝起こされて起床する低血圧の軍主は、まだ寝ぼけているのかと疑うような眼でぼんやりと周囲を睥睨した。
「ねぇ、ルック」
 いい加減無視を決め込もうとしたルックの顔を、無理矢理自分の方へ向かせるような声がかけられ、彼は渋々リオウの方に顔を戻し、愕然とした。

 表情が抜けた、あどけない少年の顔。
 なんの感情もこめられていないように見えるのに、ルックの背筋に寒気を走らせる何かがあった。

「僕から、あの人を取らないでね」
 光のない瞳。
 そこに、巨大な組織となった同盟軍を率いる軍主の影など、微塵も感じられない。
 吊り上る唇の両端。歪んだ笑顔に、本気と狂気を見た。
「――シスコン。何で僕に言うのさ」
「だってルック、ナナミから世界を"もらった"でしょう?」
 リオウの確信を持った物言いに、ルックはピクリと眉を動かした。
 その、他の人間が聞けば首をかしげるような表現の意味を解した風使いは、肯定の沈黙で以って返答とする。
 ルックの今の世界は、ナナミによって与えられた。
 それは、紛うかたなき事実であった。
「僕はナナミに、世界を見る事を教えてもらったよ」
 夢見るような瞳で、足元の崖に気付かない愚者のようなふわふわとした足取りで、都市同盟の地の救世主は語る。

「ナナミの見る世界は、何もかもを内包してた。
 醜いものも、汚いものも、美しいものも、可愛いものも、全て」
 一人の少女が、その目で見、その感性で受け止める、この世界。
 ルックにも開かれたそれは、彼よりも前にリオウに授けられていた。
「でも、僕はこの"美しい世界"で、ナナミにしか意味を見出せなかった」
 教えられ、もたらされた広き世。
 その素晴らしさは理解したけれど、たくさんの美しいものの中で、世界を与えてくれた人しか大切ではなかった。

 せっかくもらった世界。
 見出せたのは、儚く愛しい命ひとつ。

「君も、そうだろう?」
 眇められた瞳は笑っているようにも、同類嫌悪のようにも、同病相憐れむようにも受け取れる複雑な色をしていた。
 どこかで似ていて、しかし決定的に違う少年を見ながら、ルックは問いには答えず続きを促す。
「だから君は、僕の敵。
 僕からあの人を奪うかもしれないから、僕の敵」
 宝物をもらった子供は、宝物をくれた人を魔法使いのように憧れの眼で見遣る。
 そして子供は、子供であるが故に、魔法使いを独占したいと願うものだ。その魔法は、自分だけのものだと望むものだ。

「僕からあの人を取らないで」
 命令にも、懇願にも聞こえる、哀れな子供の声。
 世界を与えてくれたたった一人に執着し、縋り、愛す。
 あまりにも醜くて、なんて美しい。

「確約は、しない」
 本気には、本気で。
 ナナミにそうする事を厳しく言われているルックは、珍しく真面目に言葉を返した。
「でもあんたは、勘違いをしてるよ。
 あいつがあんたから離れるわけないだろ」
 奪われ続けた大事なもの。その中で唯一残った弟を、あの娘は命懸けで守っている。
 新たな存在を得ようとする余裕は、ない。
「何不安がってるんだよ、鬱陶しい」
 ナナミの絶対たる存在でありながら不安定に揺れる少年に苛立ちながら、ルックは軍主を()め付けた。
「とっととナナミのところに行けば?」
 身勝手な不安から解き放ってくれるのは、不安の原因でもある存在だけ。
 それが分かるルックは、冷たい視線でリオウを突き放す。
「………………ありがとう、ルック」
 すげなく追い払われているというのに、リオウは微かに苦く笑って身体の向きを変えた。
「ナナミが唯一意味あるものだって言うんなら、今必至で取り戻そうとしている、ハイランドの皇王はいったいどんな存在なのさ」
 敵対しているというのに、この姉弟は彼を大事な"幼なじみ"と見ていて、特にナナミはジョウイとリオウと3人での暮らしに戻れるよう願っている。
「ジョウイは、ナナミと僕の存在で世界を広げられた人。いや、狭められた人かな?
 ナナミだけが意味ある僕の世界で、ナナミと違うけどきちんと存在してる唯一の奴だよ」
 "普通"に世界を与えられなかった子供の笑顔。
 無邪気でいてひどく傲慢なそれは、一見すると愛らしく見えるのだろう。ルックには通じないが。
 今度こそ走り出したリオウを見送りながら、風使いは溜息をついた。
「……3人の"世界"は、ひどくシンプルで、だからこそ複雑、か」
 そんな彼等だからこそ、お互いを想い、世界をも巻き込んで戦っているのだろう。
「迷惑な」
 そうは思えど、少年は願ってやまない。
 世界を与えた少女の幸福を。
 そして彼は、彼女を奪うなと泣ける軍主が羨ましくもあった。




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