森の中を哨戒中の機械人形の聴覚センサーが、音を捉え。 無表情な機械人形は、目的地を変更した。 017:空を飛ぶもの その大気の振動は、トレスが知っている高さと調子をしていた。 良く澄んだソプラノ――人間ではないトレスの聴覚センサーは味気ない数値でそれを捉えるが、人の耳には不思議と心地良いらしい。 音が連なって、声となり。 声が紡がれ、歌となる。 推測しなくても分かる。あの尼僧が歌っているのだろう。 別に哨戒を中断してまで戻る理由ではなかったのだが、なぜかトレスは同僚達のいる野営地まで引き返していた。 「 機械であるトレスや、山あり谷あり名人生を送るアベルはこういう悲惨な事態に強く、また慣れていたが、哀れなのは小さなエステルだった。アベルから僧衣を借りているとはいえ、他には焚き火一つだけで野宿である。 最も、それで心配して気を使うようなトレス・イクスではない。 この森を横断する際、彼女には動向が困難ならば迂回するようにと進めてあり、それを断ってついてきたのはエステル自身だ。そうである以上 「回答の入力を要求する、シスター・エステル・ブランシェ。 なぜこのような時刻に歌っている。周囲の獣の関心を引く危険性がある」 「え、あ……す、すみません、神父トレス」 近付いてくる気配がトレスのものだと知った尼僧は、安堵を浮かべて微笑もうとするも、言われた内容に気付いて慌てて謝った。 「謝罪は不要だ。回答の入力を」 「その……神父様が、寝苦しそうでいらしたので」 硝子の瞳に見下ろされ、エステルはやや緊張した面持ちながらもきちんと答え返す。 アベルの片手を握っている彼女の苦笑を刷いた表情は、教会に安置されるような聖母像を思わせた。 「私がそうだった時、母代わりだった司教様が子守唄を歌ってくださいました。とても安心して眠れたんです」 司教様。 その単語を言った時の尼僧の顔が、くしゃりと歪んだ。 少女の泣きそうな様子を見ていながら、優秀で冷静なトレスの頭脳は彼女が言う「司教様」のデータを引き出し、その人物が死亡している事実を確認する。 「だから、もしかしたらナイトロード神父にもそうなんじゃないかって思ったら、つい……」 櫛を入れてないであろう神父の銀の髪を撫でながら語ったエステルは、ふるふると首を振ると改めてトレスを見上げた。 「すみません。あたしの短慮でした」 「状況は理解した。 現在は何も起きていないが、今後同じ事は繰り返さない事を推奨する」 「はい」 「卿も休め。明日も歩く。俺がここの見張りをする」 「はい。お気遣いありがとうございます」 「 素っ気無いトレスの返事にエステルは笑い、アベルとトレスからちょうど中間を取った位置に寝転がって目を閉じた。 そして彼女は、トレスの体内時計が600秒を数える前に眠りに落ちていた。 トレスの常駐戦術思考が索敵警戒仕様に切り替わって10800秒ほど経った頃、機械化歩兵の鋭敏なセンサーが小さな異常を知覚する。 閉じていた瞳を開いたトレスは、異常原因の少女を見遣った。 「ん……」 300秒前を境に、エステルはうわ言のような寝言のような声を漏らしだしている。 「いや……しきょぉ……さま…………みんな…………」 すうっと、少女の眦から透明な雫が零れ落ちた。 子供がいやいやをするように左右に振られるせいで、涙は空中に散り、炎の明かりで煌めいて地面に消えてゆく。 エステルがうなされているのは明らかだったが、機械の身体に硝煙の匂いを纏わせる機械人形は、対処する術を持ち得ない。 しばらく黙ってエステルを見詰めていたトレスは、やおら立ち上がると少女の側へ近寄り、そのすぐ隣に座ると、傷だらけの彼女の手を、 トレスの金属で出来た手が触れた途端、エステルは縋るものを探す赤子のように男の手を握り、身体ごと彼の方に擦り寄る。その身体がいまだ小刻みに震え、喘ぐような寝言も途切れ途切れに発せられている。 そんな少女の行動にも表情を変えなかった神父は、先程のエステルの取っていた行動を忠実に再現した。 おやすみなさい いとしいひとよ わたしのひざで おやすみなさい あなたのねむりは わたしがまもるから 冷たい合成音声が、滑らかに言葉を紡いでいく。 母が子供を思って歌うそれは、世界で最も似合わない男によって歌われた。 トレス自身は、悪夢を見てうなされているのであろう少女をなだめる為に彼女が先程やっていた行為を行っているに過ぎないが、その光景を彼の同僚や上司が見たら驚愕の余り卒倒するかもしれない。 牙剥く吸血鬼でさえ打ち倒す、派遣執行官"ガスリンガー"が、尼僧の手を握り子守唄を歌っている姿など―――。 トレスは記憶しているフレーズだけを飽きる事無く繰り返し、いつしか、エステルの寝言も頭を振る行動も収まっている事に気付いた。 作戦終了、とばかりに彼は立ち上がろうとしたが、少女はいまだ手を強く握ったまま。 引き剥がす事は不可能では無いが、無理矢理外してせっかく深く寝入ったエステルを起こすのは後々を考えてあまり良い事では無いと判断し、機械化歩兵は結局動かない事にした。 硝子の瞳が、ようやく安らいだ顔で眠る少女を見る。 血も涙も、感情すらないはずの機械人形は、その表情にかすかに何かを浮かべたようだった。 ――翌朝目覚めたエステルが、自分が抱き枕にしていたものが何であるのか知って悲鳴をあげるのは、また別のお話。 |