冷たい雨が降っていた。


020:雨具



 普段、元気良く城の中を走り回っているようなナナミだが、実はとても読書家で、それを知っている人間はそれほど多くない。
 家族であるリオウは当然ながらそれを知る少ない人間で、だからこそ、帰室した時ベッドの上で分厚い本を抱える彼女を見ても驚かなかった。
「ただいまぁ」
「おかえり」
 リオウがわざと間延びして疲れた声でそれをアピールする挨拶を発すると、ドアが開いた時点で振り返っていたナナミは労わりの笑顔で迎えてくれる。

 これがなかったら――彼女がいなかったら、きっと自分は生きていけないだろう。

 ぼんやりと確かに感じながら、リオウは手にしている書籍を持ったままベッドに倒れこんだ。
「お疲れ様。へとへとだね」
「へとへとだよ。シュウさん、容赦ないんだもん」
 少年は嘆くと、あまりに甘美な感触の柔らかなシーツにすりすり頬擦りをする。その様にナナミはくすくす笑い、指を差し込んで読むのを中止していた本を開いた。
「今日は何の本?」
「兵法書だよ。うちにもあったあれ」
「……あんなに何度も読んでるのに?」
 ぼろだった家。不器用な養父が作った、がたがただった本棚。そこに入っていた本はどれも骨董品のような古さで、養父も自分たちも丁重に本を扱っていた。
 養父が何かを懐かしむように読んでいた兵法書は、ナナミが暇つぶしに――どこか憎しみを込めて良く読んでいたものだった。
「急に読み返したくなったの」
 そっと装丁をなぞる横顔には少しだけ影がある。こういう時の彼女は、決まってある人物の事を思い出している事を弟はきちんと知っている。
 だからリオウも思い出す。
 彼女が、この兵法書を共有して読んでいた人物を。

『作戦―凡そ兵を用うるの法、日に千金を費やして然る後に十万の師挙(しあ)がる……かぁ。やっぱりお金はある程度必要だね、ナナミ』

 そうだよねと彼女に大真面目に賛同されて、幸せそうにふにゃりと顔を崩したあいつ。
 大して面白くもないだろう兵法を、ナナミに付き合って読んでいた。

「ねーナナミ、これ読んでよ」

 あの兵法書には、あいつとの思い出が。

 それが今はなぜかとても許せなくて、リオウはわざと彼女の読書を遮るように持ち帰ってきた本を差し出す。
 シュウに押し付けられた帝王学の本だ。
「うっわ、何コレ」
 とうとう兵法書を傍らに置き、リオウから渡された本をぱらぱらと捲ったナナミが舌を出す。
「宿題。でももう読むの疲れたよ。雨だからって一日中書類と睨めっこしてたんだよ?」
「リオウ、読むの好きじゃないもんね」
 この姉弟はどちらも基本的には外で遊んだりするのが好きだが、室内に入ればナナミは読書、リオウは戦略要素があるゲームに興じる、イメージに反する好みをしていた。
「ね、お願い」
 そして、愛らしい容姿をしてちゃっかりしている弟は、姉が自分に甘いのを熟知している。必殺の上目遣いで頼み込めば、よほどの事がない限りは聞き入れてくれるというのも分かりきっていた。
「しょうがないなぁ」
 必要以上に文字というものに関わりを持たなかったリオウが頭痛を覚えてしまうような書物を、ナナミは面白いパズルに挑戦するような面持ちできちんを開く。
 少女がその膝に本を置く前に、弟は頭を置いた。
「リーオーウ」
「良いでしょ?」
 2度目のしょうがないな、が部屋に穏やかに響いて、後はナナミの朗読が淡々と続いた。


 窓の外からは、雨が降る音が聞こえてくる。
 締めたはずのガラス戸はそれでも少しばかりの冷気を入れていて、後頭部や肩に触れるぬくもりがとても優しくて温かい。


 3分の1ほど語り聞かせてくれたナナミは、膝枕を堪能するリオウに、飲み物を入れてくれた。
 元は温かかったのであろう水の中、ふわりと泳ぐ緑の葉。
 ミルクなんてものすら日常的に飲めなかったキャロの生活で、少し贅沢な飲み物といえば、湯の中に甘味のある葉を入れて飲むこれだった。
 さわやかな甘さで飲みやすい湯は、彼女が読書する時の必需品。
 リオウにも……ジョウイにも振舞われた、懐かしい飲み物。
「雨止まないね」
「うん。外は寒いんだろうな」
 こんな夜は人肌が恋しくなる事を、人は誰しも知っている。
 だから2人は――3人は、こういう時は寄り添って眠ってきた。
「ジョウイは寒くないかな」
「……寒くないと、良いね」
 この城の中で、もう2人しか彼を親しみの情で呼ぶ人間はいない。
 お互いしかいないお互いの部屋でしか、その名を口にする事すら禁じられてしまった。

 秋の冷たい雨の日。
 天の贈り物は感謝すべきものであれど、あまりに激しいと外に出る事も出来なくて部屋の中で固まって過ごした。
 静かで、穏やかで、少し退屈な、幸せな時間。


 冷たくなってしまった湯はそれでも甘いはずなのに、なぜかとても苦くて。
 それがどうにも涙腺を緩ませるので、リオウは茶碗をベッドサイドのテーブルに置いて姉の腰にしがみつく。

「馬鹿なジョウイ」

 雨の日には、寄り添って。
 そうして過ごしてきた僕達。
 それ以外の方法なんて知らないのに。知っても、選べないのに。

「――――寒い雨を防ぐ方法を、僕達はひとつしか知らないんだよ」

 このぬくもりでしかいけないんだよ、と。

 リオウは、髪を梳いてくれる姉の手を感じながら、瞼の裏で寒い思いをしているに違いない親友に語りかけた。



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