それは遥かな記憶。
「私は罪を犯す」
 男は言った。


027:雑巾



 見えない目が、誰かを捉える。
 聞こえない耳が、音を拾う。

「すまない。
 私は、君を犠牲にしようとしている」

 話し掛けてくるその人物が、誰であるかは知っていた。
 自らを作った遺伝子の半分。
 改変されたとはいえ、この身に残る繋がり。

「子には神に等しい親の立場を利用して、私は君の人生を君だけのものではなくす」

 苦渋に満ちた声。
 それは懺悔する罪人のようにも似て。

「これは大罪だと分かっているのに、私は…………私は、行う。
 すまない」

 幾万幾千幾百―――どれほど謝罪の言葉を吐いても足りないとばかりに、父という存在はひたすら(こうべ)を垂れた。

「この宇宙の戦いを無くす為に死力を尽くす。
 お前達が生きる未来に、世界に、平和を―――――――」

 俯いたままの父の髪が、薄暗い部屋のわずかな光に反射して鈍く煌めく。
 彼の足元に、ぽたり、と何かの液体が落ちた。

「だが、私がそれを果たせず死んだ時」

 震える肩は、項垂れたままの男の心情を表すかのようで。
 それなのに彼は、言葉を止めはしない。

「その時は、お前に後を頼む。可能性を賭ける。
 否――お前に、私の願いを押し付ける。託すなどと奇麗事は言えない」

 ぱたり、ぱたり。
 落ちてゆく水滴の数が増え、男はゆっくりと前へ――こちらへ、歩を進める。

「万一の時の為に、考え付く限りの全ての事をする。
 いつか迎えるであろう、全人類の笑顔の日を夢見て」

 顔を上げた父の顔は、叶わない夢を見る者の顔をしていた。
 それでも諦めない、強い眼をしていた。

「すまない。
 コーディネイターを否定する私はお前に最高の遺伝子改変をし、平和を望む穏健派の私はお前に権謀術数と戦の教育をし、お前が私と同じように平和を願うよう誘導する」

 断定の物言いが、彼の覚悟とエゴを物語る。
 壮絶なまでの覚悟と願いを背負う姿が、まだ開いてもいない目を焼いた。

 父は、"私"が入っているポットの最外枠に手をついた。
 透明な強化ガラスが、手の形をした赤いもので汚される。

「すまない。すまない。すまないっ、すまない…………!!」

 ずるずると床に膝をつく男の、こけた頬。
 青白いそれに流れる、たくさんの透明な液体。
 ぐしゃぐしゃな顔の中で唯一美しい、強い光を失わないどこまでも透明な双眸は"私"を見た。

「お前はきっと自由には生きられない。私がそうする。
 親失格の私を、恨んでくれ」

 それでも。
 それでも、望むというのでしょう?

「すまない。
 ……お前を犠牲にしても、私はこの宇宙に平和を願う」

 ならばわたくしも願いましょう。
 それを実現するための力を、術を、あなたは与えるというのですから。


「すまない……………………!」


 叫びは部屋に――血と涙で床の汚れた特別胎児培養ルームの壁に反響し、部屋の中心にある培養ポットの中の培養液がコポポと泡を立てた。




 ―――――――遠い夢。
 覚えていないはずの、胎児の記憶。
 その光景はなぜか本能レベルで刷り込まれ、時折無意識下で蘇っては夢となる。

「――大丈夫ですわ、お父様。
 わたくしは全てを知っていてもなお、あなたが望んだ道を選んだのです」

 出来る限りの能力を自分に与え、全身全霊で愛してくれたエゴイストな父。
 愚直に子供のような夢を見ていた彼は、追跡者達の手によって呆気なく死んだだろう。
 嫌な確信だけがある。


「あなたが私を利用してまで見た奇麗事は、わたくしが実現してご覧に入れます。
 それがわたくしの弔い方です。
 あなたの死にも泣かない親不孝な娘を、あなたは責めますか?」

 無駄な問いが空気に溶け落ちる前に彼女は寝台を降り、戦う為の衣装へ袖を通していく。
 その双眸は、かつてようやく生命となった我が子に跪いた父のものと似ていながらも、明らかに異なっていた。


 ―――地球では、死ぬと空に上るという言われているという。
 ならば宇宙で死んだ者は、どこへ行くのだろう。


 あの人は。
 ボロ雑巾のようになってしまったであろう、世界で最も尊い夢を本気で見ていたあの父は、どこへ行くのだろう。



平和を夢見た親子の妄想。



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