「ねえ、あなたの世界は何色?」
 どこまでも透明で、どこかに狂気の炎を宿す漆黒の双眸を、生まれて初めて、確かに美しいと思った。


賛歌
029:虫籠と鳥籠




 そよ風が気持ち良い日だった。
 石版の管理がルックの仕事だとはいえ、一日中石版に張り付いているのを義務としているわけではなく、彼は過日のように風の中心を求めて歩いていた。
 少し気分の良いルックは、裏庭で最も風が良く通る場所を見定めて上を見る。どうやら風は、裏庭でも特に高い木の上を中心に吹いているらしい。
 彼は一つ息を吐いき、一瞬後その場から姿を消した。
「えっ、えっ? ルック君!?」
 風の魔法で瞬間移動した彼が見たのは、太い木の枝に座った少女の驚き慌てふためく姿だった。
「何やってんのさ、こんなところで」
「ここが一番風が気持ち良い場所なんだもん」
 やはりか、とルックは思ったが口にはせず、黙ってその場に座り込んだ。
 太い幹はナナミとルックの体重を受けてもかすかに揺れるだけで、びくともしない。しばらく安定する位置を求めて身体を動かしていたルックだが、やがて定まったのか寛いだ風になった。
「相変わらず鼻が利くね」
「……誉めてるの?」
「誉めてるんだよ。犬か鳥みたいだって」
「なんか誉められてる気がしない……」
 たった一度少し話しただけの二人だが、今はまるで長年の友人のように自然に寄り添っていた。それが不思議な事だと、彼等は思わなかった。
 過ごした時間など関係もなしに親しくなれる相手というのは、存在するのだ。

 ナナミはしばらく唇を尖らせていたが、元々怒りが持続するタイプではないのでいつの間にか笑って景色を見ている。
「今日も世界は綺麗」
 口の中で大事に温めたような感じの言葉を、彼女は紡いだ。
 宝物を見るかのような目と、言った内容がルックには癇に障り、ひどく不快そうに鼻を鳴らさせる。そんな少年の反応にも、ナナミは動じなかった。
「ルック君には世界が見えてないもんね」
「どういう事さ?」
「だって、ルック君の世界は何色に見えてる?」
 毒舌と他人に認識される魔法使いは、人懐こいとされる少女の柔らかな質問に息を詰まらせた。
 驚愕と恐怖。

 この少女は、何を、どこまで知っている―――?

「ねぇ、あなたの世界は何色?」
 ただの娘であるはずの彼女が、未来を見通す師の姿と重なってルックは拳を握る。一瞬の動揺を押さえた彼は、細められた闇色の双眸の奥にあるものを見て取って小さく息を吐いた。
 彼女は知っているのだ。
 世界の色が、そのまま瞳に映るわけではない事を。
「……灰色、だよ」
「そっか。
 ね、本当の世界を見てみたい?」
「別に」
「知らないままで良いの?」
「……変えられるっていうの? 僕の"世界"を」
 挑発的なルックの言葉に、ナナミは瞳を笑むように眇めた。
「じゃあ、瞳を閉じて」
 魔力の低い彼女の囁きは、強力な魔法の呪文のようにルックを素直に従わせる。
 好奇心と、怖いもの見たさがごっちゃになった感情からの行動を、彼はなぜか疎ましいと思わなかった。
 閉じた瞼に、触れてくる何か。
 温かさのあるそれは、思ったよりも小さいナナミの指先だった。
「ナナミ?」
「たくさんの生命が一生懸命生きるこの世界は、とても綺麗なのよ。
 思い込んで。世界は綺麗なんだって」
 マッサージするように、指先が軽く瞼を押してくる。それと同時に、心地良い彼女の声が鼓膜を震わせた。
「あんたは、思い込みでこの世は美しいと思っているのかい?」
「当たり前じゃない。人が世界を捉えるのは、その人自身の感覚でしかないのよ? 自分で何も思わなかったら、見るもの感じるもの全部が味気ないに決まってるんだから」
 嫌味はあっさりと受け流され、ルックは小さく肩を竦める。
「じいちゃんは私に言ったわ。
 『この世界で汚いのは悪い気持ちと、そこから派生する様々なものだけ。
 世界は美しい。さあそう思え。思い込みの力を馬鹿にするな。人の想いは白を黒に、黒を白にする。一色のつまらん世界なぞ、気力と努力と根性で変えてみせろ』って」
 ナナミと、彼女を育てた人間のなんと無茶な言い分な事か。
 そんなものでたやすく変えられるほど、ルックの世界は軽いものではない。
「……最初から諦めちゃダメだからね。
 そんな人に、世界は変えられないんだから」
 ――軽いものではないのに、このナナミの台詞にはまたカチンときて。
 いずれ行う事まで断定された気がして腹が立った。
 そんなルックの空気を感じ取ったのか、ナナミは最後にゆるく彼の瞼を撫でて指先を離した。
「――――――この、広くて狭い、優しくないものばかりの世界は、それでも綺麗なのよ」
 封じられていた眼が見た最初のものは、真夜中の闇の中にありえざりし太陽の光。
 彼女しか感じていなかった感覚が捉えた最初のものは、瞼に軽やかに触れて離れた赤い唇。

 祝福の口付けを受けたのだと、ぼんやり理解したルックは、眼と脳を襲う色の洪水に半ば放心していた。
 生まれて17年間、世界は色などなく、人の顔は虚ろな空洞に見えたというのに。
 今目を通して見える全ては、色鮮やかに存在を主張する。
 空は青く、雲は白く、木々は緑に萌え、鳥が飛び、眼下の人々は忙しなく立ち動く。
 色も音もやけに鮮明に。
 ルックは初めて見る"世界"を凝視する。
 紋章に支配されているはずの世界はけれど確かに無数の生命を抱き、紋章の戦場である世界という牢獄に生きるはずの生命達は逞しく生きている――それを、ありありと感じ、信じる事が出来た。

 はっと気付いて傍らにある人間を見遣れば、彼女は愛しげに草原を見ていた。
 その頬に、恐る恐る触れる。
 人との付き合いはおろか、接触を特に嫌うルックが自分から人に触れるのは、これが初めてだった。
 拒否されるのではないかという彼の懸念は、驚かないナナミがそっと手を添えた事で払拭される。
「ようこそ、本当の世界へ。
 盲目だったあなた」
 愛おしむかのような呟きにルックは泣きたくなって、それを堪える為に彼女を抱き締めた。

 膝の上にナナミを抱いたルックは、少女の細い肩にすっかり頭を預けていた。
「降参だよ。あんた、本当に何者なわけ?」
「私は私。ナナミちゃんでしかありえません」
「……あ、そう」
 ルックはそれ以上追求する事をせず、世界を与えた娘の細い身体を抱く力を込める。
「あんたの言い分は多少認めてあげても良いけど、僕はやっぱり何を見ても綺麗だとは思わないよ。あの花を見たって、美しさなんか分かりはしない」
 かなりの高さの誇る二人の座る木からは、空中庭園に咲き誇る花々が見える。城の住民や108星の何人かが丹精こめて育てている植物達は、様々な色彩で城の一角を彩っていた。
「それはそうだよ。綺麗は道端に転がってるんじゃないもん」
 子供に教えるかのように、ナナミはゆったりと噛み砕くように語る。
「ただその対象を、綺麗だなって思うだけなのよ」
「凄い矛盾だね。改めて振り返らなくても支離滅裂な論法だと思うよ」
「そうかもね」
「でも、その滅茶苦茶さがあんたらしいよ。だからほんの少し、世界は綺麗だと馬鹿な事を思ってみても良いかもしれない」
「そう? それなら良かった」
 ここへ来た本来の理由など忘れて、二人は軽口のような、その実軽くない内容の事を語り合い続けた。
 じゃれあうように笑いながら。
 どこかで、互いの根幹に触れているのを知りながら。


 どちらからともなく仕事へ戻ろうとしたところで、ルックはふと思い出したように口を開く。
「ナナミ」
「ん?」
 ルックの魔法による移動を辞退して、自身の力で降り始めていた少女が目で先を促す。
「あんたの世界はかつて何色だった?」
 突然の友人の質問に、少女はぱちくりと目を見開き、数度瞬きする。
 そしてゆるゆると彼女は狂気の色を瞳に灯らせ、唇を吊り上げて微笑んだ。

「何もかも、人も家も木も町も、全てを灰にする炎の赤い色だったよ」
 瞳に揺れるは、いまだ消えていない業火。
 少女の中の、消える事の無いだろう傷痕。

「ねぇ、あなたの世界は何色?」
 この日二度目の、彼女の問いかけ。
 炎の赤に世界を支配されたナナミから、死の灰色に世界を占領されたルックへの。
 ルックは、彼女のどこまでも透明で、どこかに狂気の炎を宿す漆黒の双眸を、生まれて初めて、確かに美しいと思った。

「世界のありのままの色に」

 一人の少女によって世界を与えられた少年は、世界の真実を知りながら、それとは違う本当の世界を教えられて、それを信じる事が出来て、艶やかに微笑む。
 それを受けて、彼に光を与えた少女は、嬉しそうに笑った。



 この日の会話が、少年の破滅への道を決定させる事など、この時の二人が知るべくもない。




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