譲れない願いからの行動は、愛しい人を傷付けて。 032:嘘とウソ ナナミが怪我をするのは、兵士が怪我を負う程度には良くある事だった。 勝つか負けるか定かではない激戦、戦に勝利する為の諜報活動、仲間集めや資金稼ぎの遠征―――彼女は戦う事に賛同はしていなかったが、命じられれば何を言うでもなく出陣する。 いくら同盟軍最精鋭に名を連ねる少女といえど、全てに置いて無傷とはいえず、おまけに彼女は、軍の中で最も敵に狙われる義弟を守る事を己に課していた。 防ぎきれれば良い。 だが防ぎきれなかったその時は、少女の小さな身体は血を流す。 その度に軍主が人知れず心に傷を負い、その姉は若干の心苦しさを混ぜても満足げに笑うのだ。 ――怪我を負ったナナミの傷が完全に治り、体力も回復して軍医から完治のお墨付きが出る頃、彼女は決まった人物にさらわれる。 戦いの中で恋人となった男、青雷の二つ名を持つ傭兵に。 激しい行為は、彼が負った傷を無言で語る。 いつもは自分の事を気遣ってくれる恋人は、この時――ナナミが怪我を負い、それが治った頃の夜だけは獣のように少女を抱いた。 貪るような口付けは全てを飲み込むように終わる事がなく。 乱暴な愛撫はしかし的確に少女を高ぶらせ、彼女の言葉も叫びも無視した繋がりと律動が部屋に高い声を響かせる。 外がひどい嵐だけなのが幸いだと、苦痛か快楽か分からない感覚に襲われているナナミは思った。 「やめ……っ……フリ……ックさ、ああっ!」 制止の言葉も抗議の言葉も、今の彼には届かない。 常は必ずナナミの身体を気遣い、体力の差を考えてそう何度も求めてきたりはしないのに、こういう夜は少女が失神してしまうまで責め続ける。 幾度目かのこんな繋がりを経た少女は、ある事を悟っていた。 彼の過去を、腐れ縁のビクトールや解放軍での仲間達が少しだけ教えてくれたのは随分と前の事。彼自身から聞いたのはそう遠くない昔。 何の表情もなく淡々と話していく様が、逆に彼にどれだけの痛みが襲ったのかを物語り、無理に話せと言った訳ではないが、彼に過去を語らせてしまった事を本当に後悔した。 フリックは、音もなく泣いたナナミに少し目を丸くして、馬鹿だな、と淡く笑った。お前が泣く事はないんだよ、と。 言いながら頭を撫でてくれた手が優しくて、優し過ぎて、ナナミはまた涙を零した。 「い……っつう……」 男はナナミを抱きしめて放さない。 普段ならば少女を安心させるようにその手を握り、頬を撫でるのに、今はしがみつくように小さな背をかき抱き、その腕にナナミが痛がるぐらいに力を入れる。 彼は恐れているのだ。 また、失う事を。 腕の中にいる者が、守れない事を。 ―――かつての、あの人のように。 「ひっ、きゃあ!」 最奥を乱暴に突き上げられ、ナナミは甲高い悲鳴を上げた。 白く染まり、散っていく意識の中で、彼女はある決意をする。 それを知る術を、自らが失神させてしまった少女を苦しそうな顔で抱く男は持ち合わせていない。 * 決意を胸にナナミが行動を起こしたのは、それから一週間後。 「別れよう、フリックさん」 お決まりの台詞は、いっそ道化めいて空気に砕けていった。 「え……?」 言われた側の男は耳にした事柄が信じられず、間が抜けた顔で母音を零す。 言葉の意味は分かる。 だが、それを理解する事が出来ない。 「私達、別れよう」 信じたくないからこその男の再確認を、少女は残酷に裏切って同じ言葉を繰り返した。 「何を。何を言ってるんだ、ナナミ? 何故?」 「…………一緒にいるの、嫌になっちゃった。飽きちゃったよ。 だから、別れよ?」 ナナミの顔に表情も感情もなく、言葉はただ淡々と紡がれる。 「もっと楽しいかと思ったんだけど、期待外れだったわ」 あまりに一方的で、勝手な。 不誠実過ぎる別れの切り出しに、フリックは湧き上がる怒りを止められない。 「ナナミ、お前っ……!」 「殴っても良いよ?」 見上げる瞳のどこにも、熱はない。 想いが通じ合って、涙を浮かべて喜んでくれた可愛い少女。 キスするだけで真っ赤になって、恥ずかしそうにして。夜を共にすれば、昼間のお転婆ぶりが信じられない艶を持っていて。 その全ては、まだ色鮮やかに思い出の中にあるのに。 それを増やす事は出来ないのだ、と冷たい闇色の瞳が告げている。 「……………………分か、った。じゃあな」 「ばいばい、フリックさん。 今までありがとう」 遠くなっている小さな背中に、痛みを湛えた顔のフリックは。 かすかに、かすかに。 どこかほっとしたような雰囲気を持っていた。 * 「あんたさ、ほんと馬鹿だよな」 空箱の上に座って手にワインボトルを持ち、軽薄な印象なのにどこか高貴さを漂わせる少年は、右隣で地面に 「もっとわがままになれよ。自分本位に行動しろよ」 恋人に別れを切り出したはずのナナミは、泣いていた。 「責めればいいじゃんか、フリックを」 「出来るわけ、ないじゃ、ない……」 フリックの事でだけ素直に泣く彼女。 その涙がどれほど綺麗で、どれほど痛いか、シーナは知っている。 「いつまであの 「言えるわけっ……ない、じゃない。それに、私は忘れて欲しくないの!」 「それが新しいフリックの女の言う事かね。普通は嫉妬するんだろうに」 泣きじゃくるナナミを横目に、シーナはボトルを仰ぐ。 この同盟軍の本拠地は、軍師が元貿易商と言う事で揃う品物の質が大層良く、ワインや酒類も当然等級が高いものばかりなのに、喉を流れる液体はただ苦いばかりだ。 そのくせ、酔いばかりが酷いような気がする。 「"恋人が死ぬ"ってのはフリックの泣き所で、仕方ないかもしれないけどさ。 それはあいつのどうにも出来ない弱さで、あんたが泣いて苦しんで別れる理由じゃないだろう」 「分かってるよっ。でも、でも私は、私は戦場に出続けるもの。それで、きっと……」 「止めろよ」 低い声。 今までは違う、本気で機嫌の悪そうなシーナの声に、ナナミは唇を噛む。 「覚えてるだろ。 俺はあんたが嫌いだから、あんたが死んだら墓の前で大笑いして、墓に悪戯するんだ。それでリオウに半殺しの目に遭うんだぞ。俺を重傷者にするなよ」 「勝手になってなさいよ!」 「そうさ。勝手にやるさ。 でも全部、あんたのせいだよ。あんたが俺より先に死ぬから悪いんだよ」 「何が言いたいのか分かんないよ、シーナ君。なんなのよ」 「つまりはさ、あんたを馬鹿にしてるんだよ。 あんたが怪我する度にショックを受けてるフリックなんて無視して、あんたは笑ってあいつの彼女面してりゃ良かったんだ。馬鹿だな」 「馬鹿で結構よ。それであの人が傷付かないなら、それでいいもん」 「馬鹿だなァ」 シーナはなぜか、優しく笑った。 それは膝に顔を埋めるナナミには見えなかったけれど。 通じ合った気持ちは、ほんのわずかにずれて。 そのずれは、誰のせいでもなく。 けれど、決定的な別れをもたらして。 少女と青年は、離れた。 * 戦いの最中から、白い雪がちらちらと地上に降ってきた。 やがては大地に降り積もり、この汚れた世界をつかの間白に染め上げるだろう。 そう、彼女の血で汚れたあの騎士の城も、この雪で包まれる。 死んだように静かな、大きな湖の灯台にして、頼ってやってくる人々の希望の灯として不夜城となっているはずのデュナン城も、例外ではなく。 歓喜の声はあがらない。 勝利の歌は紡がれない。 非日常の中の非日常へと身を置く城の中で、シーナは雪が張り付いてくるのも構わずに裏庭を歩いていた。 人の少ないそこは、城中に悲しみを落とした彼女が好きだった場所。 自分が一番そこで彼女と会い、彼女とその恋人が多くの時間を共に過ごし、別れを交わした場所。 恐らく、"奴"はそこにいる。 そんな確信が、シーナの足を動かしていた。 軍主は倒れた。 覚醒した後には、もう彼はあまりに平静で。けれど食事に口をつけない。青い顔で、いつも通りに職務をこなしている。たぶんもう、ルルノイエ攻略の話も言葉にしているだろう。 風使いは寝込んでいる。 昨夜ベッドに入ってから、出てきてはいない。一応部屋を覗いてみたが、部屋の主人は死んだように眠りについていた。明日には目を覚ましているだろうが、もうその時は以前の彼――硝子の目をした彼に戻っているに違いない。 彼女に近しかった二人の不調。 そして、彼等とは違う意味で彼女に最も近かった彼は。 この事を、誰よりも何よりも恐れていた、彼は。 「ああ、やっぱりここか」 悲しみの色を身に纏う男は、防寒対策もしないでぼけっと空を見上げていた。 「シーナ?」 どこを見ているのか定かではなかった瞳は、意外にしっかりとした光を宿してシーナを見返してきた。 以前のトラン戦争時、彼は自分も周囲も傷付けるナイフのような面を持っていたが、3年という時間は少し彼を丸くしたのかもしれない。 「あんたが城の中にいないから、俺がこんなところに来るはめになったじゃないか。年寄りなんだから、暖かいとこにいろよな」 「悪かったな。で、何の用だ?」 挑発に乗ってこないあたり、やはりフリックもまた変調をきたしている。シーナはやけに冷静に結論付け、彼の隣に立った。 「用っていうか、嫌がらせ」 「は?」 「あんたにじゃなくて、あいつに」 "あいつ"――それだけで、フリックには誰を指すのか分かったらしい。彼は目に見えて、身体を硬直させた。 恋人を守れなかったこの男は、ようやくそれを乗り越えて新しい大切な人を作り、その彼女に振られて、間もなく少女は死んだ。 その頃には交際しているという言葉は適切ではなく、ただの仲間というには、想いを傾け過ぎていて。 今もなお大事にしたかった少女の死は、過去の傷を持つフリックには大き過ぎた。 「あいつさ、何であんたと別れたと思う?」 「……飽きたと、嫌になったと言われた」 その時の会話は、まだ彼に痛みを残しているのだろう。フリックの顔は少しだけ歪んだ。 「んなワケないじゃん。 中々腹を割って話す友達だって作らないような奴が、恋人になるぐらいココロを許した男を簡単に飽きる? 弟と幼なじみにあれほど執着する奴が、そんな事になると思う?」 シーナらしからぬ、人の心の奥への踏み込み。 この少年はいつも重たい話題から逃げていたのに、今はフリックが逃げたい事へと進んでいく。 「……あいつは」 シーナは最後の決心を決めるように、深呼吸をする。 「あいつは、自分があんたを傷付け続けるのに耐えられなかったんだよ」 掴み所の無い、心を映さないその双眸には、嫌悪と悲しみの嵐が吹き荒れていた。 * ―――どこかで、フリックは分かっていた。 情の深いあの娘の、不自然で下手な別れの切り出し。一方的な物言いに腹が立ったのも事実だけれど、訝しさの方が上に立って。 その答えは、探す前に自分の中にあった。 しかしそれを直視したくなくて、直視出来なくて、被害者の顔をして別離を受け入れた。 卑怯にも、彼女を悪者にしたのだ。 顔を伏せたフリックに、シーナが何かを察して目を見開く。 「……アンタッ! あんた、分かってたのか!? 分かってて、あいつと別れたのか!?」 襟を掴んで揺さぶるシーナへの返答はなく、それが肯定の証だと分かった少年は高潮した顔を隠すように項垂れた。 「あいつがどれほど泣いたと思ってるんだっ!」 胸のあたりでくぐもったそれは、位置のせいではないだろうにやたらと心臓に響いて、フリックは、目を眇めた。 あの娘は、ただひたすらに前を、小さくて絶望的な望みを見詰めて、細く危うい道を歩いていた。 涙を見せずに笑う強さに焦がれ、切なくさせられて。 恋仲になれば、己の傷も厭わずに進む彼女に、怖くなった。 愛せば愛するほど、恐ろしくなって。それを誤魔化すように、小さな身体を壊れるまで抱きしめた。 結果、彼女を腕の中から去らせてしまった。 「…………馬鹿ばっかりだ。どいつもこいつも。 もっとわがままになれば良かったんだ。自分の幸せに、貪欲になれば」 はぁ、と大きな息をついて、シーナはフリックから離れた。 素直に生きる少年は、楽な生き方をしようとしない人々を瞼の裏に映して頭を振る。 どうして自分の周りにはそんな人間がたくさんいて、自分は彼等と友達で、彼等が好きなのだろう。 そんな不器用な人間達が好きだから、シーナは悲しい。 「泣いているあいつは、それでもあんたが好きだと言ったよ」 鮮やかな新緑色の瞳が、空を舞う雪のような冷たさと雪を握る掌の温かさでフリックを射た。 男が超えられない弱さは、罪ではなく。 少女の行動も、逃げではなく。 それただ、悪い要因が哀しいまでに重なった結果で。 「誤解しないでくれよ。俺は、あいつが嫌いだった。 だから、あんたに秘密を暴露して嫌がらせをしてるんだ」 フリックの、緩む涙腺を全く無視して、シーナは言い訳のような言葉を放つ。 「嫌いだから、無様に不幸なられるのが嫌で、見えないところで幸せになって欲しかっただけさ」 少年の瞳も潤んでいた事に、右手で目を覆った傭兵は気付く事が出来なかった。 「――――だから、あんたといれて幸せだったなんてあいつの言葉は、信じてやらないんだよ」 雪は降り続ける。 まるで、愛する人の死に泣く人々の涙のように。 少女は嘘をついた。 別れの理由を。 青年は嘘をついた。 自分の心に。 少年だけが、嘘をつかなかった。 嫌っていても愛している事を。 |