余ったからあげるよ、と渡されたリボン。  控えめな銀色が美しいそれを手に、浮かんだのは一人の少女。


010:それはきっと、確かな予感



 緑にも見える神田の黒髪も見事だとは思うが、陽があたると黄金の縁取りになるリナリーの黒髪はそれよりもさらに美しい。
 絡まる事など知らなさそうなそれが風に吹かれてなびく様など、アレンは身動きも取れず見惚れるしかない。
 身だしなみに気を使う女の子らしく丁寧に梳かれた髪は、激しい戦闘の中ではしなやかな鞭のようにうねり、乱雑に扱われる。
 それを見るのは実は少々心苦しい少年の心境を彼女は当然知らないだろうし、これからも知る事はないだろう。

 彼女は――彼等は戦う者。
 髪が切られても、腕が千切れても、戦い続けなければならない者。
 だからアレンは、自分の感傷を口にするつもりはない。彼女もそれを望まない事を知っている。
 普段手をかけている美しい髪も、いざとなれば呆気なく自ら切り捨てるだろう。
 その覚悟を、リナリーは持っている。
 エクソシストの誰もが、持っている。

 だが、それでも。
 戦いから離れた一時だけ、生死を賭けた戦いで捨て去るものを大事にしても良いだろう。
 そんな他愛無い事が出来るという日常こそが、エクソシスト達を奮い立たせる理由。

 アレンは彼女の喜んでくれる顔が見たくて、歩いた。


 細めのリボンを丁寧に折り畳み、アレンは冷たい石造りの廊下を行く。
 仕事以外で彼女が赴く場所を、彼は最近ようやく思い描く事が出来てきた。
 第一候補である喫茶室。
 任務中ではないエクソシスト達がたむろしている事の多いこの場所は、休憩時間中のリナリーが出現する確率の高いポイントである。
 人がいないという事は少ないので、リナリーがいなくても情報が聞けるかもしれないと訪れてみたが、心配は杞憂に終わった。
 その代わりに、心臓を跳ねさせる光景が広がっていた。

 本部はどうにも重苦しい雰囲気を漂わせる建物なのだが、喫茶室は大きな明かり取り用の窓がいくつかある。
 アレンの目的の少女はその一つの窓枠に腕を置き、頭を乗せて窓の外を見上げている。
 それだけを見れば、美少女が子供のように空を見ているだけのほほえましい情景であった。
 が、彼女の美しい髪の一房が不自然に後方へ伸び、その終点を男が掴んでいた。
 刀のイノセンス使い、神田だ。
 彼は元々の無表情をより不機嫌そうに歪め、眉間の皺を一刻一と深くしながら、リナリーの髪の先を弄っている。
「な、何やってるんですか、神田!」
 叫んだのは、驚いたのと、怒りからだ。
 アレンはリナリーを好ましく思っていて、どこか独占したいような気持ちもあって、彼女の綺麗な髪も好きだから、その髪が他人に触れられるのがなんだか非常に嫌だった。
「その声、アレンく……きゃっ!」
「動くじゃねぇ!」
 振り向こうとしたリナリーが悲鳴をあげ、神田が慌てて触っていた髪の毛を彼女に近づける。
「モヤシ! 櫛持ってこい!!」
「は? 櫛?」
「ごめん。櫛じゃなくて、ハサミもって来てくれるかな、アレン君」
「とっとと行け! この馬鹿女が暴れて髪を切る前にな!!」
 アレンは、なんとなく情況を察して、櫛を手にすべく全速力で走り出した。

 つまりは、こういう事だ。
 喫茶室に向かおうとしたリナリーが、報告書をコムイに提出しようとした神田とすれ違い、その際に少女の髪が少年の袖のボタンに絡まった。
 多々あるわけではないが、時折ある程度のアクシデントである。
 神田は位置的に自分で外せないリナリーの髪を仕方なく外してやろうとしたのだが、普段さらさらと絡まない毛はなぜかどんどんボタンと複雑に絡み合っていき、イラついた彼に配慮して少女は髪を千切ってしまおうと申し出た。
 彼は凄まじい顔をして却下し、近場で座れる喫茶室へ急行、現在ボタンと髪の仲を引き裂こうと奮闘中なのである。

「情況は分かりました」
 と言ったアレンの声など、届いていないに違いない。
 神田は任務中にも匹敵する真剣さで、リナリーの髪をほどきにかかっていた。
「切って良いって言ってるのに……」
「黙れ」
「はぁい」
 もう何度も繰り返したやり取りなのだろう。彼等の顔は、互いの答えを熟知しているものだった。
 リナリーの視線はまた遠くを見、神田は丁寧に少女の髪を解いていく
 さらさらと、衣擦れにも似た涼やかな音。
 近い位置にいなければならない二人に降り注ぐ光が、エクソシスト達の黒服を優しいものに変える。
 きれいな、風景。
 けれど少し腹立たしいな、とアレンは思った。

 ゆっくりゆっくりと、絡まりは解かれていく。
 神田の、刀を扱う無骨で長い指は、硝子細工を触れるような繊細さでリナリーの髪に触れる。
 きっと彼は、彼女が好きだ。
 アレンがそう分かるほど、少年の今の雰囲気は穏やかで、どこか満ち足りている。
 手の中のリボンを握り締める。
 そうしたかったのは自分。彼女の髪に触れ、撫で、梳きたかったのはアレンだった。
「……っ……」
 自覚してしまうと、無性に腹が立ってくる。
 アレンの気配が変じたのを悟ったのか、神田はちらりと視線をよこして、また作業に戻った。
 その頬が少しだけ緩んでいた事を、アレンは努力して無視した。

 神田が小さく安堵の息を漏らす。
 頭皮の具合で、髪が解けたのがは分かったらしいリナリーが動こうとするが、神田が頭を押さえて強制静止させた。
「取れたんでしょ?」
「良いから座ってろ」
 無愛想な神田の言葉に怯む者も多いが、リナリーはその中に入らない。気分を悪くするでもなく彼の言葉に従い、少年は彼女の髪を梳き始める。
 少し乱れてしまったリナリーの髪を、整えてやろうというのだろう。
 アレンの持ってきた櫛を軽やかに操り、ボタンに引っかかっていた部分だけでなく全体的に梳かしていく。
「気持ちいー……」
 撫でられている猫のようにリナリーが呟き、身体から力を抜いていく。
「兄さんが、してくれる時みたい」
 幼い子供のような呟きに、アレンはつい苦笑する。
 仲の良過ぎる兄妹がくっついたりじゃれたりしているのは、彼も良く知っていたから、コムイがリナリーの髪を弄っている図は簡単に予想出来た。

 どこもかしこも梳き終わり、やっと神田は納得したらしい。
 かなり残念そうに―アレンしか分からないぐらいのものだったが―、とうとうリナリーに動いて良いと許可を出した。
「あ、待って、リナリー」
「え?」
 さっきからずっと同じ体勢のリナリーは窮屈らしい。今にも動きたいという空気を醸し出しながら、アレンを見る。
「綺麗なリボンをもらったんだ。リナリーにどうかと思って。
 僕がリナリーの髪につけてもみても良い?」
 綺麗なリナリー。
 彼女の、美しい髪。
 でもきっと、必要とあらばばっさり切り捨てられるそれは、愛しいひとを構成する要素のひとつ。
 リナリーの髪を離した神田の手が跳ねたのを視界の隅で見ながら、アレンはきょとんと自分を見上げてくる少女に笑いかける。
「アレン君が?」
「うん。駄目……かな」
「つけてくれるの?」
「うん」
 彼女はにっこり笑った。
 とてもとても嬉しそうに。

 了承の証とばかりに、リナリーが再び窓の方へ身体を向ける。
「今日はどうしたんだろう。
 男の子達に髪を梳かしてもらうなんて、なんだかお姫様にでもなった気分」
 嬉しくて、どこか恥ずかしい。
 そんな心情を、リナリーは弾んだ口調に混ぜる。
 アレンは神田に櫛を渡してくれと手を差し出し、かなり乱暴に目的のものを渡されて内心で苦笑する。
 これから彼は、つい先程までの自分が味わっていた心地を抱くに違いない。見続ける事に苛立ちながら去る事も出来ず、ただ立っているしかないのだ。
 嫌な気分をさせるのは気持ち良いものではないが、これに関しては遠慮の出来ないアレンである。

 自分の髪にはろくに櫛を通さないというのに、リナリーの髪はいつまでもいじっていたい衝動に駆られる。
 ゆっくり、そうっと、神田の手によってとっくに絡まりのなくなった黒髪に櫛を通し、サイドと上部の髪を一纏めにしていく。
 はっきり言って、アレンにヘアアレンジの技術はない。だから自分が出来そうで、女の子らしい髪型といえば、それぐらいしか出来なかった。
 元々リナリーが使っていた髪留めを使用して一箇所を結い、その部分にリボンを巻いていく。
 余りものとしてもらったにリボンだというのに、長さはかなりのもので、少し考えて趣向を凝らせば中々豪華な飾りになった。
「はい、出来たよ」
「綺麗なリボンね。ありがとう。
 早く鏡で見てみたいな」
 リナリーはリボンの端を摘まみ、それから飾りつけの部分にそっと触れる。
 自分がいじくった場所に彼女の手が触れるのは、なぜかドキドキした。
 触れ過ぎてリボンが解けるのを気遣ったのか、リナリーはすぐに手を外し、もう一度アレンに礼を述べた。
 緩む頬を押さえられないアレンの横で、いつもと違った髪形のリナリーが口を開く。
「神田」
 不機嫌な空気を撒き散らしつつ、アレンの作業が終わるまで喫茶室を去らなかった少年を呼んだ。
 彼は無言で言葉の続きを促し、少女は瞳を細める。
「髪を切らないでくれて、ありがとう」
 窓から差し込む日差しに負けないぐらい、やわらかであたたかな、笑顔。

 ―――守るべき、もの。


 きっと彼女を好きになる。
 なぜか泣きたくなりながら、アレンはそれを確信した。




 余談だが。
 翌日リナリーの頭は、アレンが施したものと比べ物にならないぐらい力のこもった編みこみが成され、銀色のリボンが清楚な輝きを放っていた。
 なお、アレン、神田両名によるリナリーの髪弄りはとある少年の耳に入り、二人は彼から手酷い宣戦布告(嫌がらせ)を受けたという。




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