あ、と思った瞬間、身体がよろけた。
 立て直せなかったはずの体勢を、支えてくれたのは細い腕だった。


012:どうか、忘れないで


「だ、大丈夫、乙姫ちゃん?」
「……うん、平気だよ」
 咄嗟に伸ばしたのだろう腕を、しっかり私の身体に回して、真矢が後ろから覗き込んでくる。
 ああ、彼女の瞳は優しい。その透明さが、好きだと思う。
「ありがと、真矢」
 兄のものとは明らかに違う細さの腕では、軽め(らしい)とはいえ人の重さを支えるのは大変だろう。床と足がきちんとくっついている事を確認して、早々と自分の足で立つ。
 大丈夫という意味をこめて笑ったのだけれど、真矢の顔は晴れてくれない。
「……具合、悪いの?」
 本当に心配してくれているのが痛いほど分かる、真摯な顔。
 そういう顔は千鶴よりも鋭いなんて、初めて知った。
「大丈夫だよ」
「嘘」
 一言で、切って捨てられる。
 断定の響きのあまりの鋭さに、つい目をまたたく。
「なんだか辛そうだよ……」
 そう言った当人が、本当に苦しそうに眉を寄せてこちらを見てくるものだから、そんな顔をしないで、とまず思ってしまった。
「大丈夫だよ、真矢」
 時が来るまで、誰にも言うつもりはない。
 事情を知る大人と兄・総士以外には、誰にも。

 欲しいのは、気遣いされずに、愛しい人々と過ごす日々。


 彼女は、人が奥底に抱えているものを見抜く、と総士が言っていた。
 こちらをじっと覗き込む瞳は、確かに少しだけ恐いとも思う。
 隠し事は出来ないし、見たくないものからも、目を逸らせない。
 総士みたいに、知って欲しくない事にも、やっぱり触れられてしまうのかもしれない。

 でも、やっぱり。
 私は真矢を好きだと思う。

「……無理、しないでね?」
 だって彼女は、人が本当にかたくなに嫌がっている部分には、決して無遠慮に暴き出したりはしないから。
 ぎりぎりのところまで近付いてはくるけれど、そこで折れてくれる。
 気遣ってくれる。
「うん。じゃあ、真矢」
「なあに?」
 彼女を見上げて、むくむくと顔を出したわがままを口にする。
 唐突な私の"お願い"に、それでも真矢は快く頷いてくれた。







「―――遠見?」
 平らなエスカレーターで移動していた総士は、その終わりにあるソファに意中の人を見つけて、思わず名前を口にしていた。
 呼ばれて、真矢が顔をあげる。
 動作の勢いが少しだけ激しくて、明るい茶の髪が踊った。
 彼女は、唇に人差し指を当てるという、分かりやすいジェスチャーで総士に発言を禁じる。いったい何事なのか、と真矢を良く見てみれば、短いスカートから伸びる足に、黒いものが乗っていた。
「乙姫?」
 黒いものは、妹の長い黒髪。
 髪の延長線上には当然ながら乙姫の身体があり、どうやら小さな妹は膝枕をしてもらって横になっているようだった。
 そう認識した瞬間湧き上がる、どす黒い感情。
 腹の奥底からどろどろと沸騰するそれを、表に出さないよう必死に押さえつける。

 相手は乙姫。大切な妹だ。
 この島を守る責を負った、たった一人の総士と同じ存在。

「ちょっと疲れちゃったんだって。休ませてあげて?」
 眠る少女を起こさない為だろう。真矢が小さく、ことさら優しい声で総士に説明する。
 小さな手が黒い髪を愛おしげに梳くので、なだめたはずの感情が、再度暴走しかけてしまう。
「妹がいたら、こんな感じなのかなぁ」
 拳を握りこんで嫉妬心をこらえる総士に気付く事無く、真矢はやわらかな笑顔で乙姫を見詰める。
 総士と真矢―一騎もだが―は、いわゆる幼馴染という関係にあるが、これまでそんな表情は見た事が無い。
 そんな、全てを包み込むような慈愛の笑みを。
「可愛いね」
 ああ母の顔だ、と総士はようやく思い至る。
 真矢が彼の中で「女の子」になって随分経つけれど、彼女が長じた先でなるもの――受けた性が、この時はっきりと分かった。
「ん……」
 声を漏らした乙姫の背を叩いて、まだ寝てて良いよ、と行動で教えてやる。
 もう、総士の中から、強い負の感情は消えていて、代わりに、感謝と微笑ましさが湧き上がっていた。

 乙姫は母を知らない。
 存在すら本当に小さかった時、温かな海から取り出されて、培養液の中で生きる事を余儀なくされた。
 総士も良く覚えていない大きなぬくもりを、せめて彼女には、と思い、願う。

 小さく聞こえてくる真矢の歌声に、総士も瞳を閉じた。
 彼が欲しいのは「母」の彼女ではないけれど、今だけは、乙姫に与えられるぬくもりの欠片に浸っても許されるだろう。
 目の前でただ突っ立つ少年に真矢は何も言う事無く、膝の上で眠る少女に子守唄を歌ってやり続けた。







「……まやぁ?」
 どれくらいの時間、眠っていたのだろう。
 波が引いていくような自然さで目が覚めて、見上げた先にあった顔に呼びかける。
「起きた? 眠たいなら、まだ寝てて良いよ?」
 低めの声は、起きたばかりの精神を刺激し過ぎなくて、ほっと息がつけた。
 たいして時間は経っていないようだ。島のシステムにリンクしている身体は、すぐに現状を把握して、そう教えてくれる。
 短い睡眠ではあったが、ずっと感じていたぬくもりと旋律が身体を撫でていて、心身共にベスト・コンディションと言えた。
 すっきり覚醒する意識とは裏腹に上下する瞼を擦ると、髪に触れている真矢のものとは違う、がっしりした手が、私の手を掴む。
「あまり擦らない方が良い。目が腫れるぞ」
「そおし」
 驚いた。
 ここに総士がいる事にもだけれど、彼がこんなにも優しい顔をしている事に。
 確かに兄は自分にはやわらかい表情をしてくれるけれど、いつもとちょっと……否、明らかになにかが違う。
 でも、これは考えなくても良い事だ。
 理由なんて、分かりきっている。

 ここに真矢がいるから。

「乙姫、寝るなら部屋で寝ろ。風邪を引くし、遠見にも迷惑だろう」
「うん……今度からは、そうするよ、総士」
「皆城くん、乙姫ちゃん、言っておくけど、あたしは迷惑だなんて思ってないからね」
 総士の話し方に慣れているのか、真矢は苦笑気味に付け足してくれる。
 迷惑じゃないと言ってくれたし、次は部屋のベッドの上でやってもらおう。真矢の膝枕は、アルヴィスの枕なんかよりも、ずっと気持ちが良くて、安心する。
 外にいられるうちに、あと1回ぐらいは……許されると思いたい。

 さっき"お願い"を思いついた時よりも唐突に、いたずらを考え付いて、私は真矢の膝に頭を預けたまま彼女の顔を見詰める。
「まや」
「んー?」
 聞き返す為に頭を下げてくれる彼女の首に腕を回して、自分の上半身も少し起こす。
「だいすき」
 ちゅ、と、触れ合った唇から軽い音がした。
 1度やってみたかった。
 芹ちゃんが連れて行ってくれた公園で見た、お母さんと赤ちゃんがしていた、これを。
 やる相手は、真矢しか思いつかなかったけど。
 真矢は、そういう類のものだって分かったんだと思う。ちょっとだけ顔を赤くして、「あたしも好きだよ」っておでこにキスしてくれた。

 温かくてやわらかい真矢の身体に甘えながら、ちら、と横目で総士を見る。
 案の定、兄は真っ白に燃え尽きていた。


 ごめんね、と胸中で謝りながら舌を出す。
 もう少しだけだから、真矢に甘えさせてよ、お兄ちゃん。


 鼻の奥がつんとして、私は真矢の肩に顔を押し付ける。

 間髪入れず背を撫でてくれた手を、出来る事なら忘れたくないと祈った。






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