空は快晴。風は爽やかに。
 ―――絶好のピクニック日和であった。


013:二度と戻れない、その場所


 頭には、かぶせられた麦藁帽子。歩くたびに、白いワンピースの裾がふわりと広がる。
 布の色が周りの緑と調和した様はなんだかとても綺麗で、乙姫は嬉しくなった。
「乙姫ちゃん、転ばないようにね」
「うん」
 後ろからかけられた声の優しさに、乙姫は素直に頷く。
 あまり足の速くない乙姫の後を、ゆっくり追って歩いてくるのは遠見真矢だ。
 手には大きな藤のバスケットを持って、乙姫と同じシンプルなワンピース―こちらは青だ―を着て、白い帽子を被っていると、まるで深窓のお嬢様だ。

 二人がアルヴィスの制服を脱いで森の中を歩いているのは、実に簡単な理由。
 ピクニックである。
「ねえ真矢、なんで私を誘ったの?」
 蝶のようにはためく真矢の帽子のリボンに目を奪われつつ、乙姫は聞いてみる。
 千鶴を除いた大人と、ファフナーパイロット達とはあまり親しくないので、ずっと不思議だったのだ。
 真矢は笑むように瞳を眇めて、帽子のつばをそっと押さえた。
「良い天気だったから」
「……それだけ?」
 乙姫がきょとんと首を傾げる。
 困ったように苦笑した真矢は、ゆうるりと果てない空と海を見た。
「お天気に気持ち良くなって、にっこりして、一緒にふらふら歩いてくれる人って考えたら、乙姫ちゃんしか思い浮かばなかったの」
 それは、なんて嬉しい言葉だろう。
 接触が決して多くは無い真矢が、"人"としての乙姫を認め、理解してくれているという事。
 彼女の名を、口の中で呼んだ。
 何度も、何度も。

 真矢、マヤ、まや――――。

 彼女には分からないだろう、泣きたいぐらいの感謝を。

「そっか」
 答える声は、震えていなかっただろうか。
「うん。それだけ。
 付き合ってくれて、ありがと」
 真実を――人の心の奥を見抜く真矢は、きっと乙姫の中のさざめきも分かっているに違いない。
「お礼を言うのは私の方だよ、真矢。
 私、ピクニックは生まれて初めてなの。ありがとう」
「楽しもうね」
「うん」
 自然に差し出された手に、乙姫もまた当たり前のように己のそれを重ねて、少女達は歩き出した。


 乙姫――島のシステムによって完璧に管理されている竜宮島だが、周辺の気候と影響し合って、絶妙な天気になる日もある。
 それが今日だった。
 空は快晴。太陽は強過ぎず。風は爽やかに。肌を撫でていくそれは気持ち良い。
 木々の緑は鮮やかに光り、風に揺られてしゃああああんと擦れ合う。
 美しい絵と音楽――自然の創りあげるそれらに、乙姫は目を細める。

 世界の、なんと美しい事か。

 陽は輝き、花が咲き、鳥は鳴く。
 岩戸の中では決して知る事の出来なかったもの。

「はい、乙姫ちゃん。水分補給しなきゃだめだよ」
「うん」
 バスケットの中に入っていた水筒から注いだ麦茶を渡され、乙姫は言われたとおり喉を潤す。確かに身体は水分を欲していたらしく、喉を通るそれはひどく美味しかった。
 夢中になってこくこくと飲んでいく乙姫をやわらかく見遣って、真矢も麦茶に口をつける。
 生まれてより島のコアとして存在した少女は母を知らなかったが、ずっと自分の事を意識の隅に置いている真矢を見、お母さんとはこういう存在(ひと)なのだろうかと想像する。
 無条件で、全てを委ねてしまうようななにか。
 乙姫は、ぽすんと真矢の肩に頭を預けた。
「ピクニック、楽しいね、真矢」
「うん」
 さらりと、帽子を脱いだ乙姫の頭を撫でていく手。
 良かったね、という祝福と、良かった、という彼女のささやかな安堵を伝えてくれる。
 空になったコップを傍らに置いて、乙姫は真矢の腕に抱きついた。
 この島の気候と季節からしたらちょっと暑苦しい行為にも真矢は何も言わず、やっぱり髪を梳いてくれるのだった。


 ふわふわと、風に乗っていく透明な玉。
 玉によって、うっすらと、グリーンやブルー、ピンクにイエローの色がきらめく。
 乙姫が息を吹くたび、大なり小なりのそれが生まれて、飛んでいった。
「これがシャボン玉?」
 きらきらした目で風に流れるものを見詰める乙姫に、真矢は頷いて自分もシャボン玉を吹く。乙姫の行った時よりも、大ぶりな玉が宙に生まれた。
「あ、大きい!」
「息をゆっくり吹いて、石鹸水をストローから逃がさないのがコツなんだよ」
「やってみる」
 自分の息一つで形を変える綺麗なシャボン玉に、乙姫はなんだか夢中になってしまった。真矢いわく小さな子供のやる遊びらしいが、これをやらない大人や、少年少女はもったいない、とさえ思う。
「総士はやらないのかな?」
「皆城くんは……乙姫ちゃんが誘えば、やってくれるかもね」
 寂しげな微笑。
 乙姫は、かつて仲が良かった幼馴染達が、長じるにつれて疎遠になっていったのを知っている。だけどそれは、決して彼等が互いを嫌ったわけでは無い事も知っている。
 進化した少年達の気持ち。少女だけが変わらなくて。
「じゃあ、私が誘ってみるから、総士がやるって言ったら、真矢も一緒にやってくれる?」
「もちろん良いよ」
「ありがとう、真矢。……大好き、だよ」
 真矢は目を丸くする。
 島の者には公平であらねばならない乙姫にとって、一人に感情を傾けるのはいけない事。
 だから、これは内緒。
 誰にも言わない、ほんの少しの特別。
「私もだよ」
 目をふわりと和ませて答えてくれる彼女に、乙姫は思い切り飛びついた。


 これは、私が"外"で生きていた時間にあった、ひとつの出来事。
 全てが宝物として残る記憶の中、ひときわ光り輝く宝石のような思い出。





「総士。一緒にシャボン玉しよう」
「シャボン玉?」
「うん。真矢と、私と、三人で」
「なんで突然シャボン玉なんだ?」
「嫌なの?」
「そういうわけではない」
「真矢が教えてくれたんだよ。
 ねぇ、総士」
「なんだ?」
「真矢が総士のお嫁さんになったら、真矢は乙姫のお姉さんになるんだよね?
 私、真矢にお姉さんになってほしいな。頑張って、総士」
「つ、乙姫!?」





 その日を、夢見てる。



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