甘いケーキの匂い。芳しい紅茶の香り。


086:気高き蝶



「あの……おばさんは、おじさんやツナ君、うちのお兄ちゃんや獄寺くん、山本くん、雲雀さん――みんながやっている事を、知っていますか?」
「私は何も聞いてないけど……なにか、やってるんでしょうね。
 お父さんはツナに学校を休ませてるし、ツナは毎日傷だらけのぼろぼろで帰ってくるし」
「わたっ、私、鈍いですけど、お兄ちゃんが嘘をついていたら分かります!」
「うん」
「あんな怖い相撲大会があるわけないこと、分からないほど小さい子じゃない」
「そうね」
「私が心配するから、お兄ちゃんが本当のことを言わないんだって分かってます。
 でも!」
「本当のことを知らないのも怖くて辛い。
 そうでしょう?」
「はい……ッ」

「これは私の考えだけど。
 なにもかも話すことだけが愛情なわけではないと思うの」
「え?」
「私はロマンのある男の人が好きで、石油を掘りに行っちゃうような家光さんと結婚したわ。でも、いくら私がノーテンキでも、家光さんが泥の男っていう顔だけがあの人の全てじゃないって気づいてる」
「おばさん」
「今の京子ちゃんと同じよ。
 ただ私は、それを聞くことはしないんだけど」
「なんで……どうして、聞かないんですか? 聞かないでいられるんですか?」
「家光さんが私に言わないってことは、私に話すとどこかなにかにマイナスな事なんだって分かったの。
 それは私の身の危険かもしれない。精神的な不安とかそういうものかもしれない。周りへの影響とかそういうものかもしれない。
 考えれば考えるほど怖くなった時もあったわ」
「今の私と……」
「似ているでしょう?」
「はい」
「ぐるぐるしてマーブルみたいな頭になった私は、最後に家光さんを信じようって落ち着いた。今はもう大丈夫。
 話さないことがあるかもしれない。でも、あの人は「行ってくる」って言ったわ。「帰ってくる」って。私はその夫の言葉を信じてる」
「私もそうした方が良いんでしょうか」
「ふふ。どうなのかしら。
 私はこういう風になったけど、京子ちゃんがどうするのかは京子ちゃんが決めることよ」
「難しいな」
「おばさんだって悩んで悩んでやっと落ち着いたんだもの。
 京子ちゃんに簡単に悟られちゃったら悔しいなぁ」
「あはは、おばさんは私の先輩ですね」
「そう。女としても大先輩だよ、おばさん」

「今日はありがとうございました。考えてみようと思います」
「あまり役に立てなくてごめんね」
「いえ。すごく助かりました。
 きちんと考えて、それからどうするか決めます」
「そう」
「良かったら、またお茶してください。おばさん」
「もちろん。うちにも遊びに来てね? ランボくんやイーピンちゃんも喜ぶし」
「ぜひ!」
「それじゃあ気を付けて」
「はい。さようなら!」


 わずかに影を背負いながら、それでもしっかりと地面を踏みしめて去る少女の背を見送った沢田奈々は、観葉植物で隔てられた後ろの席へ静かに言葉を投げた。
「今の話、あの人には内緒にしてね」
 見ないけれど、そこにいる人物達の空気が強張ったのが分かった奈々は、伝票を手に席を立つ。
「その代わり伝えておいて」
 金髪の青年と、茶髪の少年。
 二人共、夫の大事な人間だと奈々は知っている。
「どんな事をしてても、どんな事をしても良いから」
 言葉を切る。

 それはもう何年も前に自分の中で決めたこと。

 たとえ表立って言えない職でも。
 たとえ褒められない所業をしていても。

「必ず帰ってきてね、って」


 笹川京子に続いて店を出た彼女に贈られたのは、マフィア達の無言の賛辞だった。


 甘いケーキの匂い。芳しい紅茶の香り。
 ――ひそやかに、女達の涙が流れていた。




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