人のいなくなった夜のビル。
 その屋上に、金と赤の色彩があった。


096:ある夜の御伽噺



 初夏の夜風がギルガメッシュの頬を撫で、前髪を弄ぶ。
 聖杯戦争終了後、自らの力のみで呼び出した稀代の魔術師は髪を上げない方が好みと言うので、最近ではめっきり梳いただけの髪型だ。
 小さな変化とはいえ、他人の影響である事は確かで。
 それが当然面白くない彼は、実に彼らしく鼻を鳴らす。
「何よ」
 碧い瞳が、じろりと見上げてくる。
 頭ひとつぶんよりも下からだというのに、視線の力はとても強い。
 が、ここで謝るようならばギルガメッシュはギルガメッシュではない。
「なぜ我がこのような事をせねばならん。王の役目ではないわ」
 雑兵にやらせよ、と尊大にのたまる英雄王に、少女はにこりと笑う。
「ギル。もう何度も言ったわ」
 一転した表情は無。雰囲気は苛烈に。
 女の魔力が空気を変えて。
「わたしは冬木の管理者。遠見の魔術師よ」
 最高の美酒にも感じられるマスターの魔力が、不機嫌なギルガメッシュの気分を否応にも高まらせた。
「そしてアンタはわたしのサーヴァント。わたしが行くところについて来るのは当然でしょ」
「雑種が!」
「……なんなら、泰山に連れて行ってあげるわよ?」
 英雄の中の英雄は、血の気の失せた顔を高速で横に振った。


 ――眼下の街は、怪異を内包した狂いの眠りについている。
 どことなく粘り気のあるような夜気が鼻について、ギルガメッシュの顔を険しくさせた。
 刻一刻と不快な空気になりつつある事を凛も分かっているだろう。
 その瞳の温度は冷たい。
 わずかな異変も逃さぬように、己が預かる街を王者のように見下ろす。
 と。
 人間と英霊の体が、まったく同時にかすかな反応を示した。
「ギルガメッシュ」
「分かっている」
 見えた。音がした。匂いがした。味がした。感触がした。
 遠くないところで世界が変じたのを感じる。

「行くわよ」
 タンッと、軽やかにビルの屋上を蹴る少女。
 着地の事はギルガメッシュに任せていて、彼が気まぐれでついてこない事などとは微塵も考えていない。
 サーヴァントが召喚者を失えば現界出来ない為、ギルガメッシュは己を死なせないと魔術師として判断したのだろう。それは正しい。
 だが、遠坂凛という少女は、生業に相応しくどこまでも冷徹に思考出来ながら、それ以前の部分で、あっさりとギルガメッシュを信じていた。
 それが彼には解せない。
 しかも愚かとしか言えない少女の在り様は、理解出来ないながらも鮮烈に新鮮に男の目を焼いて。

 ギルガメッシュは盛大に舌を打ち、先行する主に追いつくべく勢い良く足を踏み出した。


 預けられた背中は小さく、腕にかかる重みは子犬のようであろうとも、彼女は一流の名に相応しい魔術師。
 実に淡々と、かつ速やかに冬木市の異変を収拾する。
「あっけないわね」
「我と貴様が共に立っているのだ。この世に敵などおらぬわ」
 しゅうしゅうと音を立てて消えていく怪異の正体を一瞥し、ギルガメッシュは身を翻す。
 原因を取り除いた今、ここに留まる理由はない。無意味・無駄を嫌うマスターもそう判断するであろうと思い、彼は移動の為に少女に近づいたが、彼女は夜の闇でも分かりやすい呆気に取られた表情をしていた。
「リン。雑種なりに見られる顔を維持する努力はせよ」
 返答は鳩尾に、音速の拳が返ってくる。
 咄嗟に腹筋に力を込めなければ、軽く気をやっていたかもしれない。
「何なのだ、一体」
「あ、あんたが、妙な事を言うからじゃない!」
 白い頬を赤くして怒鳴る。
 自分のどの発言がマスターをこうまで動揺させたのかが分からず、ギルガメッシュは内心で首を傾げるが、隣でうーと唸りながら高潮した頬を押さえている少女を見てまあどうでも良いか、という気分になった。
 今度こそ移動しようとギルガメッシュが主を抱き上げる。
 腕に座らせるような抱き方は、すっかりお馴染みとなったスタイルだった。
「リン」
 王たる自分が他人を担ぐなど、本来ならば天地が逆転してもありえぬ事態。それを事も無げに強要し、いつしかギルガメッシュに不満を抱かせなくなった。
 ある意味――否、本当に偉大なる少女に向かって、英雄王は言の葉を紡ぐ。
「我が手を取れ」
 血のように、紅玉のように赤い瞳が禍々しい光を放ち、男の唇が吊りあがる。
 その光景はどこか芝居のワンシーンめいていた。けれども、男の口調に戯れの成分は微塵も入っていなかった。
「世界をお前にやろう」
 誇張でもなんでもない。
 ギルガメッシュと遠坂凛が真実手を取り合えば、世界に敵はいない。
 世は自分のものだが、多少はこの娘に与えてやっても良いと彼は思うようになった。

 男の人となりを知る者ならば、彼の発言のおかしさに気付いただろう。
 最古の英雄ギルガメッシュは、そんな事を言う存在ではない。


 腕の中のマスターは目を見開く。
 彼女は理解したのだろう。
 これは、求婚されるよりも重く甘い誘いだと。

 息を詰めた少女を獲物のように見詰めながら、ギルガメッシュは答えを待つ。
 人間の欲望は尽きぬ。分かりやすい富の形を示せば、簡単に転がり落ちてくる。
 かつて世界中の富を手中にした男は、清廉なる主もその例外ではないと勘違いをしていた。

 彼の主人――美しい魔術師は瞳を眇め、

「くだらない」

 冷たく一刀両断した。

 先ほどとは逆に目を丸くするギルガメッシュの、間違いなく本心からの発せられた言葉はマスターに届かない。
「世界なんか、とっくにわたしのモノよ」
 そう鮮やかに笑う女の、美しいこと。
 呆然とするギルガメッシュを置き去りに、遠坂凛は楽しげに月を仰ぐ。
「欲しいものも自分で手に入れる。聖杯にだって、願い出るものなどありはしない」
 かつての赤い弓兵を求めていながら、歌うように言葉を紡ぐ少女。

 ―――ああ、彼女こそが最強。

 我知らず、胸の内に降りた事実。
 驚愕も衝撃もなくすとんと落ちてきたものに、ギルガメッシュは息を付く。

「我がマスターはつれぬ事よ」
「ギル……あんた」
 くつくつ笑う下僕がはじめて自分を主人として認めた事に気付いた凛が驚き、ギルガメッシュの腕の中で身を捩って抜け出そうとするが、それを許す男ではない。
「今に見ていよ。
 いずれ必ず、お前に我が手を取らせてみよう」
 不適に笑うギルガメッシュと、彼に勢いで唇を奪われそうになって怒鳴るそのマスター。
 騒がしい彼等は、溶けるように闇に消える。



 今ようやく繋がり、歩き出した主従を。
 白い月が見ていた。


 微笑むように。嘲笑うように。


 月が、見ていた。



くるまや本舗のさかなぎりゅう様の設定をお借りして書かせていただきました。 金凛万歳!
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