新政府軍との小規模な戦いに辛勝した後の、緊張の緩んだ時間のこと。
 被害状況確認や怪我人の手当てなどでざわつく空気の中、部下からの報告を待つ斎藤の視界に軽い足音で走り回る千鶴の姿が映る。
 彼女は戦力にはならないが、医療の覚えがあるためその存在が重宝されていた。戦闘後のこうした時にはもっとも忙しく立ち回っている。
 高く結われた黒髪が揺れて怪我人の前に座ったところで、部下が斎藤のもとに駆け込んできた。とりあえず勝ち戦ということで明るい顔の兵に向き直る直前、近くに座る人間の呟きが聞こえる。
「綺麗なひとですね」
 大きくはないそれがやけにはっきりと耳に届いたのは、言った兵がまっすぐに千鶴を見ていたせいだろう。全身を血と土埃で汚した男は遠い目を――幻を、眩しく綺麗なものを見るかのように、もうとても男子には見えない彼女を見つめている。
 そこにどんな感情があるのかは分からなくとも、誰かが千鶴を注視していることにチリリと胸の奥が焦げる音がした。

 千鶴の魅力を知っているのは自分だけではない。
 それはあまりにも当たり前のことで、新撰組の中にも彼女に好意を寄せたり、人柄が好ましいからと世話を焼いたりする人間は少なくなかった。
 属する場所が変わり接する者が異なっても、特殊な事情を持つ千鶴が徐々に受け入れられている。彼女の人となりの成せることで、喜ばしいことのはずだ。
 なのに斎藤の胸のうちは晴れない。
 戦の事後処理が終わり、夜となった今でも肺のあたりがどうにも重く息苦しい。
(俺も大概心が狭い)
 理由は分かっているのだ。
 自分が一番、彼女のことを知っていると言いたい。そうでありたい。
 千鶴のことが認められるのは嬉しくても、あまり多くから彼女を見られたくはないのだ。
「ふっ……」
 斎藤はため息をつき、思考を飛ばすように軽く頭を振って背筋を伸ばす。
 自分は男女の間柄について淡白な性質だと考えていたが、そうではないらしい。
 こんなにも独占欲が頭をもたげる。
「斎藤さん?」
 月の光に照らされる黒い森の中から、今まさに考えていた相手の声がして斎藤は顔をあげた。ガサガサと草を踏み分けてやってくる小さな影。
「千鶴。こちらだ」
 木々が少なめの開けた場所にいるこちらは分かりやすいかもしれないが一応声をかけると、明らかにほっとした声音で答えが返ってくる。
 ほどなく千鶴は斎藤のところに辿りついた。
「どうした?」
「それはこちらの科白です。中々お戻りにならないので、その……発作を起こされてるのではないかと」
 心配そうに揺れる千鶴の表情と月や星の位置見て、自分がどれほど思考に耽っていたのか理解してやや驚く。言われたとおり結構な時間が経っていたようだ。
「すまない。考えに時間を失念していた」
「そうでしたか。すみません、お邪魔してしまって」
「いや、助かった。考えても埒のないことだった、から、な……ッ!?」
 ドクリといやに大きな鼓動が身体中に響いた。
「斎藤さん!!」
「騒ぐなっ。すぐに……治まる」
 立っていることが難しく、草の上に膝をついて自身の腕を掴む。
 もう何度目かも忘れた羅刹の吸血衝動。経験から、なんとか耐えられる程度だろうと予想がついても、苦しさを緩和するものにはならない。
 顔の前に落ちてきた髪の色が常のものとは違う。駆け寄って隣に座ってこちらを覗きこむ千鶴の顔色もまた、月光のせいではなく白いように見えた。
「斎藤さん、大丈夫ですか。血を……!」
「要らぬ。それほど、酷くは、ない」
 乱れる呼吸を押さえつけて、小太刀を取り出す千鶴を制止する。何度もその恩恵を受けてはいても、出来ることならば彼女に血を流させたくはない。
 こちらの意図を汲み取ってくれたのか、千鶴はぐっと唇を噛みしめ斎藤の腕をさする。幼い日に病気や怪我をした際に誰かがしてくれたその仕草は、本当に治るわけでなくとも精神的にわずかに楽になる。
 身体を苛む強烈な渇きがゆるやかに治まっていく。
 息をつき、どことなく重たい頭を持ち上げると、泣きそうで泣かない千鶴の顔が間近にあった。
「良かった……」
 斎藤の発作が落ち着いたのを見て取った少女の、安堵交じりの微笑み。やわらかなその美しさに、昼間の兵の言葉が蘇った。
『綺麗なひとですね』
 ああ、そうだ。千鶴は綺麗だ。
 こんな血みどろの戦の中でも、人間ではなくなった斎藤の前でも、こうして相手を案じて、必死に手を伸ばせる強さを持っている。
 誇らしさのような愛しさのような、湧きあがってくる感情の名前が分からない。
 堪らなくなって、斎藤は千鶴を草の褥に押し倒した。彼女を衝撃からかばいながらも、勢いのまま口付けを繰り返す。
「んんっ!?」
 驚いて目を白黒させる千鶴には悪いと思いつつ、まだ若干羅刹の衝動が残っているのか理性が弱くて止まる気にはなれない。
 何度も角度を変えて唇を重ね続けていると、最初の動揺から立ち直った千鶴はおずおずと斎藤に応えるそぶりを見せ始めた。

 どんな自分でも受け入れてくれる女への気持ちに、斎藤は昼間から渦巻いていたどろどろした情動を放り捨てて目を閉じた。



37 All agree.



函館旅行中のお約束・しずちゃんへのお礼SSでした。


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