特徴的な癖のある文字。
 世界で唯一それを書くひとはもういないはずで、殴り書きのようなメモを見た瞬間、頭が真っ白になった。



51 いらないと思ったから
「No.62-6」



 学園から事務所の寮への引っ越し作業中。学園時代に書き溜めた楽譜を溜めていたファイルケースを整理しようと、ケースの中で雑然と重ねられた紙の束を手に取った時にその紙片は落ちてきた。
 分類をするならば綺麗な、けれどシャープさが強く出た右上がりの癖字。はじめて見た際にはなんて人となりが出るのだろうと思った。
これは、彼が那月だと演技しないで行動するわずかな場面で見た砂月の字だ。
「どう……して……」
 メモを拾い上げて掴む自分の手が震える。
 彼はもういない。那月の幸せを願って、自ら消えていった。まだ生々しいその消失と、春歌の中の喪失感は大きくて息が詰まる。
 砂月がいたという証が形で残っているものは少ない。どんなものでもこうして手に出来るならば嬉しくて、溢れそうな涙をこらえ、小さな紙面の単語を目で追う。
 PC、デスクトップ、フォルダの名前。フローチャートのようになっている単語を順に追って、最後に丸で囲って強調してある文字は、ファイルの属性を変更、となっていた。
 作曲や音楽方面ばかりで機械を扱う春歌でも理解できる、ファイルの置き場所の覚え書きに見える。砂月とは一緒に曲作りをすることもあったので、その時に紛れ込んだのだろうか。
(あれ、でも)
 いくつの名前に覚えがある。慣れ親しんだ、自分のパソコンの中のファイルのものだ。
 特にフローチャートの最後のフォルダは、つい先日やけに容量があると気づいて首を傾げた記憶がある。
 ゆっくり振り返り、机の上のパソコンを見た。あの機械に彼は触ったことがあるはずだ。ふらふらとした歩みで辿りついて、マウスを手に操作する。
 砂月が書いたはずのメモを食い入るように見て、間違えないようにひとつひとつ手順を踏んでいく。春歌にはよく分からない最後の作業を終えると、パッと新たなフォルダが出現した。
 ドクンとやけに大きい心臓の音がする。
 メモを胸元に抱えてそろりとフォルダを開く。見慣れたアイコンがいくつか、メディアファイルや楽譜ファイル、テキストファイル等が並んでいた。
 鼓動はますます激しくなり、喉の渇きが酷い。自覚しても構わず、パソコン脇に置いたままのヘッドフォンを装着し、強烈に引き寄せられる音楽データを迷うことなくクリックする。
 激しい歌が、流れ出した。

 鼓膜から身体へ、心へ。
 我慢していたはずの涙はぼろぼろと零れて、頬を伝い首まで落ちる。自分の嗚咽で呼吸が苦しい。それらの感覚が今は鬱陶しくて切り離してしまいたい。春歌はヘッドフォンに手を当てて曲にだけ集中する。
 説明されなくても分かる。これは砂月が作り歌った、春歌にくれたもの。
 彼の"愛してる"だ。 「……さつ、き、く……!」
 名前を口にしてしまったが最後、立っていられなくなって春歌はその場に沈み込む。もう限界だった。
 力強いシャウトが、春歌の中の砂月の姿を輝かせる。
 春歌が見つけるかなんて保証のない場所に隠されたメモに、気づかず埋もれてしまってもそれでも良いと笑う彼の姿が見えようだ。
 なのに、作曲家の春歌の為にだろう、きちんと揃えられた数々のファイルが相反する彼の想いを教えてくれてたまらない。
 歌やデータの全部が春歌に向けられ、呼んでいる。砂月が自分に語っている。
 ロック調だった曲はラストで趣を変えてバラードへ変化して、力強かった歌声が囁くようなものになる。その歌い方があまりにも優しく、切なくて、春歌は大声で泣きながら世界でたったひとつの音源を聴き続けた。


 ――声も涙も涸れるほど泣いた春歌が気絶するように意識を落としても停止されなかったその歌に、名前はなかった。
 ただ、手書きの楽譜を取り込んだ画像データの隅に、「Lieder ohne Worte No.62-6」と特徴的な文字で走り書きがしてあった。




(メンデルスゾーン“Lieder ohne Worte”「無言歌集」-作品62-6.イ長調アレグレット・グラツィオーソ《春の歌》)



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