「ちょっと……! どうしてそういう事になっちゃったの?
 油断も隙もない……!」
 その言葉は勝手に動いた兄への咎めではなく、知らないうちに"彼女"に近づいた事への非難だったときっと誰も分からない。



57 (いき)()ちタービュランス



 しえみが暮らす蔵の中、雪男はベッドに座る少女の前に跪いた。
「失礼しますね」
 一言断り、しえみが頷いたのを見てから着物の裾を割って隠れている白い足に触れる。 戦闘の後にも確認していたが、数時間前に存在していた異形さは微塵もなく、彼女の両足今は細くなめらかな少女らしいそれだった。
「大丈夫みたいですね」
「うん。もうなんともないよ」
 悪魔の魔障を受けていたせいもあってやや顔に血の気はないものの、しえみの瞳には確かな光があって表情もすっきりしている。雪男は表面上には出さなかったがほっと息ついた。
「わざわざまた来てくれてありがとう」
「いえ」
 眼鏡のブリッジを押し上げながら用意してくれた木の丸椅子に腰掛ける。
 下級悪魔・山魅との戦いが一件落着し、元々の予定である依頼へ向かった雪男は再び祓魔用品店一人訪れた。
 念の為に魔障の確認をしに来たと告げると、しえみの母はあっさりと蔵へ通してくれた。
 形だけの診察を終え、ずっと喉に引っかかっていた疑問を口にする。
「しえみさん。どうして僕にすぐ連絡してくれなかったんですか」
「あ……」
 笑っていたしえみの顔が花が枯れるように萎む。だが雪男は追及の手を緩める気はない。
 彼女の母から娘を診てほしいと連絡を受け、話を聞いて知識と経験がしえみの症状は重くないと頭では判断していてもたまらなかった。
「僕は、あなたの恋人じゃないんですか」
 搾り出した声が醜く捩れていても、取り繕えない。
 兄には言っていない、先日やっと父だけに報告したしえみとの交際。
 知り合ってから数年ゆっくりとではあっても確かに心を重ねたと思っていたのに、異変を彼女自身から知らされなかった事にショックを感じずにはいられなかった。
 なぜ、自分は何も知らないのだろう。
 最初に診察をした時、平静さを保てた自分を誉めてやりたい。
 奥歯を噛み締めて怒りとも悔しさともつかない感情を抑えていると、しえみのおずおずとした声が耳に滑りこんだ。
「ごめんね、雪ちゃん。ごめんなさい」
 昼間とは違う水色に金魚が泳いだ着物の膝元を握りしめてしえみは続けた。
「あの、根? があった足を雪ちゃんに見られたくなかったの」
 その告白に雪男の目は丸くなる。意味が理解できない。
「足、ぼこぼこしてて気持ち悪かったでしょ。雪ちゃんに見られてちょっとでも嫌われたらって思ったら怖くなっちゃって。うちはお店がお店だから悪魔じゃないかって少しは考えたんだけど信じたくなくて……」
 どんどんと小さくなっていく言葉はついに途切れ、替わりに、外の草木が風に揺れる音がやけに大きく聞こえた。
 嫌われたくなかったという彼女の発言が耳の奥でリピートする。
それが、雪男の苛立ちもショックも吹き飛ばす甘い言葉だと、しえみは知っているのだろうか。
 自惚れでは、ないだろう。その怯える気持ちが好きの裏返しだと。
 かぁっと頬に熱が走ったのを感じて右手で顔を覆う。触れた掌が体温の高さを教えてくれて、しえみが俯いてくれていて良かったと心底思う。
(クソ。反則だ)
 胸中で口汚く毒づき、数度の深呼吸で自分の感情を押さえ常の状態に戻していく。過酷な任務の為に必須とされたマインドコントロール訓練をいまさらながら感謝した。
 幾分整った精神状態で、雪男はしえみを正面から見る。
 痛々しく震え、綺麗な着物に皺を作るしえみの手にそっと自分のそれを重ねると少女はバネ人形のように勢いよく顔を上げた。涙の雫が動きに合わせて宙に散る。
「何かあってもなくても色々な話をしてください」
 あんな風に知らなかったことに衝撃を受けたくはない。
「僕に、話してください」
 過ぎるのは、この美しい庭で話をしていた兄としえみの姿。自分以外の者に泣いて縋っていた彼女。あの役目はもう誰にも渡したくない。
 雪男は自分で考えていたよりも己の独占欲が強かったのだと理解する。だから、知らない間にしえみと兄が知り合っていたのが嫌でたまらない。
「うん。約束する」
 しっかりと頷いたしえみのものに被せていた手を持ち上げ、少女の目尻に滲んだ涙を拭う。白い肌が少し赤くなっていて痛々しい。
 くすぐったそうに瞳を細めて、ほんのり頬を染めたしえみがたどたどしく言った。
「雪ちゃんも私に話してね。頼りないかもしれないけど、役に立たないかもだけど知っていたい」
 彼女の頬に添えたままだった雪男の手にそっと触れられるしえみの手。ほのかに朱に染まった笑顔に、どろどろと怒りで渦巻き冷えて固まった雪男の心が解けてく。
 しえみから引力でもあるかのように引き寄せられる。頭を前に倒し、細い肩にもたれかかった。
「ゆ、雪ちゃん!?」
 花や草、土か水か、そのどれも感じるがどれでもない恋人の香りを吸い込み、深呼吸をする。呼吸をする度に落ち着く気がするのに、反して心臓の音が大きくなってもいる。それが嫌ではない。
 だがあまり弱音や愚痴を言いたくない性質が雪男にすぐに身を正させた。顔を真っ赤にしたしえみの行き場がなかったらしい手に笑い、彼女の右手と自分の左手を組む。
 蔵に来た時の腹立たしさはすっかり消え、しえみと時間を共有する時の穏やかな気持ちになっていた。
「僕も出来る限りのあなたに話します。その、仕事とかで言えないこともありますけど」
 話せないことが多くある雪男の、出来る限り誠実な言葉だった。彼女にはなんでも言ってほしいのに自分は全て言えないのは矛盾しているけれども。
 怒るだろうか。少し不安になって、繋いでいる手に力をこめる。
 答えは、雪男よりも強い握る手の力で返された。
 赤い目を細めてしえみが微笑む。少し悲しげだが優しい、全てを許すようなそれにたまらない気持ちになる。
 彼女を好きだと思った。

 それほど裕福というわけではない、貧しいというわけでもない教会育ち。双子の兄と共有するものは多く、おさがりのものも多かった。
 しえみだけは、と強く思う。
 たったひとつ、彼女だけは、誰にも渡さない。
 今一番危機を覚えるのは、今日しえみに近づいた自分の血縁者。


(もう絶対に油断も隙も見せない。兄さんには、絶対あげないよ)






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