小野田坂道にとって、巻島裕介は唯一である。 過ごした時間が半年に満たなくとも、人慣れぬ少年のはじめてという部活動において指導した先達の背中はあまりにも大きく。 もはや不動となったその存在。他の誰にも越えられぬことを、皮肉にも当人たちは知らない。 小野田坂道にとって、荒北靖友はヒーローだろう。 暑い夏、誰にとっても忘れられぬインターハイ。厳しい状況の中で、彼の道を名前の通り荒々しく切り開いた男。 どれだけ少年に眩しく映ったことか。 小野田坂道にとって、真波山岳は運命だ。 出会いも、名前も、脚質も、誂えたかのように。二人が特別になるべく綺麗に揃っている。 切り離せない者同士の絡まりあいを、彼自身は自覚してはいないだろう。 「ならばオレは、」 無意識に滑り落ちた言葉と共に、閉じていた東堂尽八の目蓋はすぅっと開く。 目の前に広がるのはさきほどと変わらぬ景色。背中にはゴツゴツとした木の感触。一人で登ってきた山頂を通る風は涼しく、すっかり熱の引いた頬を撫でる。 今まで抱えていた漠然とした感覚を突き詰めて言葉にした結果が、こんなにもクリアな納得をもたらしたことに苦笑する。 あまり認めたくなかった、想い人と関わる者たちとの関係性を受け入れれば、揺れ続けていた東堂の気持ちも自然と定まった。 見ないふりを続けてもいいことなどありはしなかったな、と自嘲する。 幸いなことに、件の三人とも坂道を憎からず思っていながら手に入れてはいない。その現状と、己の心境を認識した今、自分の望む未来に進めるよう本気になることに躊躇いはなくなった。 彼の中の自分のスタート位置に特別さがないから、と諦めるくらいの気持ちならばこれほど悩んできていない。 東堂は凭れかかっていた幹から身を起こし、カチューシャを外して頭を振る。 長めの前髪が顏に落ちたところをかきあげて視界を広くするも、手を離した途端吹き抜ける風によって乱される。構わず、広がる山々の風景を見下ろした。 下した決定を口にするのに、ここ以外に相応しい場所はないだろう。 ここは空に近い山の頂き。自身への称号ではなく、真実山の神の耳に入るように口上する。 「――ならばオレは、そのどれでもない者になろう」 神には祈らない。自らの力でそうなってみせると一人のクライマーが決めたことを、山々はただ聞いてくれればいい。 小野田坂道の隣に立つ権利を得るのは自分だという宣言を。 「眠れる森の美形は目覚めたぞ、メガネくん」 ここにいない彼への呼びかけは、自分でも分かるほどあまりに甘ったるかった。 恋しい少年の、唯一とヒーローと運命。なんという強い言葉たち。 そのどれでもなく、また劣らぬ価値のたったひとつの称号を、手に入れてみせる。 58 風をよべ
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