手も足も遠慮なく自由に伸ばせる夜。
 ずっと使っていたはずのシングルサイズのベッドを、広いなと思った。


98 自由と呼ばれるきゅうくつ


 法事があると春歌が泊りがけで自宅へ帰っていった。
 同棲してから、自分が長期ロケなんかで不在にすることはあっても、春歌がいないというのは初めてである。
 相手が在宅で作業することも多いせいか、蘭丸が帰るとだいたい家にいて、集中して周りが見えていない状態でなければ笑顔で迎えてくれる。
 それに慣れてしまったのだと気づいたのは、二十三時に帰宅した時のこと。
 分かっていたはずなのに、玄関を開けて真っ暗な室内に軽く驚いた。
 少し前までは一人暮らしで、帰宅しても無音なのは当たり前だった。けれど恋人との暮らしに慣れた身体に久々の静寂がやたらと沁みる。
 背中を這ううすら寒さに舌打ちをし、背負っていたベースを降ろそうと部屋の奥へ進むとテーブルの上に何か乗っているのに気が付いた。
 ラップのかかった食器がいくつか。
 仕事で何があるか分からないから用意しなくてもいいと言ったのだが、春歌は夕食を準備していったようだ。
 とりあえずは相棒のベースを定位置に置き、もう一度テーブルに向き直る。
 大皿に盛られた肉が多めの肉じゃが。ほうれん草の胡麻和えの小鉢。蘭丸からすると小さな握り飯が乗った皿。それぞれきちんとラップに包まれて乗っている。
 揃えられた箸の下に滑り込ませてあるメモを見つけて手に取ると、春歌の丸っこい文字がちまちま書かれていた。
『おかえりなさい、お仕事お疲れさまです。
 冷奴とサラダが冷蔵庫の中に入っています。
 もしも食べて帰られていたら、全部冷蔵庫に入れておいてくださいね』
 場合によって打ち上げになることもある蘭丸の事情を気遣う文章に春歌らしさを感じつつ、今日はそうならなかったので有難く用意されたものを食べようと冷蔵庫へ向かう。
 同棲を初めて随分と中身が充実した機械の箱を開き、メモ通りのものを取り出してテーブルに運ぶ。
 鳥のササミがふんだんに乗ったサラダや副菜の冷奴を並べると、一人の食卓にしては随分と色とりどりで緑豊かなメニューが作り手の存在を感じさせた。
 肉じゃがだけをレンジで温め、作り置きしてある麦茶も用意して腰を下ろす。
「っし」
 軽く手を合わせて料理を口に放り込んだ。
 春歌の薄めの味付けは、今ではだいぶ馴染んで舌が迎え入れる。
 身体が求めるままに速いスピードで食事をしていた蘭丸だったが、それぞれの皿があらかた空いてきた頃になってピタリと箸が止まった。
 時間が経っても料理の味はいつもと変わらないのに、共に食べる相手がいない静かな食卓。
 そう気が付いてしまった途端に食べているものの味気がなくなった。
チッと舌を打つ。なんて現金な。
 残りの料理を瞬く間に食べ終えて、早く寝てしまおうと蘭丸は席を立った。

 春歌がいなければ湯舟は使わずシャワーのみで、それも烏の行水の速さで済ませてしまう。
 早々とバスルームを後した時には、時計の針は二十五時を指していた。
 明日の仕事は午前から。寝られるようならば早々と休息を取った方が良いと理性は判断しているが、感情がノーと言ってCDの並ぶ棚へ視線が泳ぐ。
 どうにも表現できないざわめいた心持ちが聞きたい音楽を選び、コンポにセットした。
 控えめな音量で流れ出すのはゆったりとした洋楽のバラード。気分に寄り添う曲調が心地良い。
 ソファにどっかり腰を下ろし、適当に転がしておいた携帯電話を手に取った。
 用事はないがたまにはメールを送るのもいいかと指を動かす。
『飯食った。ありがとな。美味かったぜ』 
 タイトルをつけずにそれだけで送信した。
 どうにも調子が狂う。時間に余裕があるのならば、やりたいこともやれることもあるはずなのに、結局ほかに何をする気にもならない。
 息を吐きながらがしがしと後頭部をかくと、右足の側に置いてあった携帯電話が震える。
 届いたメールは予想通り春歌からのもので、すぐに開封した。
『おかえりなさい。
 ご飯食べてくださったんですね。ありがとうございます。
 明日の夕方には帰ります。久々の実家はちょっと不思議な感じです』
 控えめなデコレーションで彩られたメールを読み終えると、すっかり肩の力が抜けていた。
 不透明な気怠さもマシになった気がして、今なら気分良く眠れそうだとコンポのスリープタイマーを設定してベッドへ向かった。
 部屋の電気を消し、布団の中に潜り込む。身体が自然と片側を下にした横向きの体勢を取った。
「あー、ったく」 
 ひとりごつ。
 今日は別にベッドの半分を空けなくてもいいのだ。左腕を枕させるために伸ばす必要もない。
 ごろりと仰向けに向き直り、投げ出した左手を折り曲げて額を抑えた。
「は……」
 変な笑いが漏れる。
 同棲してまださほど時間は経っていないというのに、無意識にあんな姿勢を取るほどに春歌の存在が当たり前になっているのだと痛感する。
 傍らに大切なものがいない物足りなさ。
 どれだけ黒崎蘭丸は変わったのだろうか。
 手も足も遠慮なく自由に伸ばせる夜。ずっと使っていたはずのシングルサイズのベッドを、広いなと思った。
 淡々と動くコンポから、ピアノの音を伴奏にしゃがれた声のラブソングが流れる。
 ストレートに大切な人間のことを称える歌詞が今はやたら心臓に響く。
 この歌を春歌は知っているだろうか。聞いたらどんな反応をするのだろう。もしも歌ってやったら、どういう表情を浮かべるのか。
 結局はそこに戻る思考を蘭丸はもう押さえつけることはしなかった。
 今の自分の中心には春歌がいる。それは間違いのない真実だ。
 ごろりとシーツの上を移動する。
 玄関より遠い方のベッドの片側、いつも春歌が寝ている場所は少しだけ女の香りを残していると少し前に気づいた。その残り香を胸に吸い込んで蘭丸は目を閉じる。
 疲れている身体に睡魔はあっという間にやってきて。
 眠気でとろりとした心地の中、まだかすかに流れる歌が後半にさしかかり、絞り出すような歌い方で男性歌手が絶唱しているのを聞いたの最後に意識は途絶えた。


 翌日の夜更け、蘭丸が仕事を終えて帰宅した時には春歌も家に戻っていた。
 ドアを開けると部屋に灯りがついていることにほっとする。
 ただいまと言えば、おかえりなさいという声と共に春歌が玄関までやって来た。
 遅くなるので夕飯はいらず、先に寝ておけと連絡したいたので春歌はもうパジャマ姿である。
「起きてたのか」
「はい。蘭丸さんと少しでもお話したくて……あっ、でもあんまり遅くなりそうだったらちゃんと寝ようと思ってましたよ?」
 無理をしながちな春歌に体調管理も仕事のうちだと諌める蘭丸を思い出してか、慌てて付け加える様子に苦笑する。
 ゆるく握った手で軽く頭を小突いて怒っていないことを教え、そのままやわらかな髪に指を通す。
「蘭丸さん?」
 不思議そうに見上げてくる女を引き寄せて、前髪ごと額に口付けた。
 胸を満たす充実感。これが足りなかったんだと身体が教えて、もうこれがないと生き辛い自分を思い知る。
「風呂に入ってくるから少し待ってろ」
「はいっ!」
 可愛い生き物が嬉しげに頷くのを見た蘭丸は、今日の風呂も短時間だと確信した。
 やはり早かった入浴時間の後は、時刻も時刻のために二人してすぐにベッドに潜り込む。
 シーツの半分側には春歌が転がり、蘭丸が投げ出した左腕にそっと頭を乗せる。小さな体を空いている腕で抱き込むと、パズルのピースがはまるように身体が落ち着いた。
 たいして大きくもないシングルベッドは狭いが、昨日のような空虚さはない。
 春歌の持つ甘い香りを吸いこんで息をついていると、蘭丸の首元あたりに額をつける少女が少し身じろいだ。
「実家に帰って、わたしのお部屋を両親が残してくれていたので久々に自分のベッドで寝たんです」
 一度言葉を切った春歌がついと頭を蘭丸に擦り付けてくる。
「なっ、おい……?」
 恥ずかしがり屋な女の珍しい行動に驚いたが、動きが性的なものではなく、どちらかというとこの家によく餌をねだりに来る猫のそれと似ていたので好きにさせることにした。
 そう時間を置かずに春歌は動くのをやめ、蘭丸と視線を合わせてきたかと思うと話を続ける。
「自分のベッドなのに、なんだかしっくりこなくて戸惑ってしまいました」
「なんだそりゃ」
「わたしもおかしいなぁって思いながら寝てたんですが、今やっと分かりました。わたしにとっての帰る場所はこのお家で、ぐっすり眠れるお布団は蘭丸さんといるここなんだって」
 暗闇の中でよく見えなくても、春歌が笑っているのが気配で分かる。
 ああもう限界だ。
 蘭丸はたまらずに春歌を力の限りに抱きしめた。
「きゃ、ら、蘭丸さん!?」
「おまえがかわいいこと言うのが悪い!」
 半ば八つ当たりの反論を返し、痛みを与えないであろうギリギリの力でやわらかい身体をかき抱く。すると春歌がその手で控えめに蘭丸の服を握って来るので、最後の理性の糸がぷつんと切れた。
 少女の頭を落とさないよう抱えて身を起こす。
 今夜はそんなつもりはなかったとか、明日は早朝ロケだとか、そういうことは全て彼方に吹っ飛んで、今はただこの目の前の女を愛したい。
 寝る前のゆったりした空気から一転、蘭丸に覆い被される形になった春歌が意味のない母音を途切れ途切れ口にする。その細い首にねろりと舌を這わせた。
「ひゃぁ……んッ」
「いい声聞かせろよ。……昨日の分までな」
 震える喉を甘噛みして少女のもこもこしたパジャマに手をかけた。
 自分の顔が笑っているのが分かる。
 寝返りも打ちづらいようなこのベッドの窮屈さが、幸せだった。





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