囚われ姫ルート設定
ふとなにか聞こえた気がして、骸は顔を上げた。
読んでいた本に指を挟み、耳を澄ます。
小さくかすかに。
歌、のようなものが。
骸は本にブックマークを差し込んで、椅子から立ち上がる。
行き先は決まっていた。
057:今は遠い、君のうた
その部屋は狭く、大部分を大きなベッドが占領している。
大人五人が乗っても眠れる広さのそこは、浚われた女――笹川京子がほとんどの時間を過ごす場所。
明り取りの窓は部屋の高い位置にありながらしっかりと鉄格子が嵌っているが、やたらと大きくて、空の青が良く見える。
届かない青空をじっと見つめながら、少女が歌っていた。
イタリア育ちの骸には言葉は理解できても詳しい事は分からないが、その歌が穏やかなものらしいのは分かる。
羞恥心の強い彼女にしては珍しく上半身の肌を晒したまま、静かに音を紡ぎ続ける。
傍らでは、犬と千種が寝息を立てていた。
京子の気だるげな空気や二人の様子から、恐らく偵察から戻った彼等が楽しんだんだろうと予想出来るが、それにしてもなぜ彼女は歌っているのだろう。
それに、犬と千種がああも熟睡しているのも珍しい。
闇の世界でも、さらにマフィアと敵対してきた骸達は、生き残る為に眠っていても人の気配に敏感だ。
骸が入室した事に気付かないとは、よほど深く寝入っているのだろう。
稀有な事態をそうと知らない少女は、歌いながら時折、自分を蹂躙した相手の頭を撫でる。
興味を惹かれた骸は、足音と気配を消してベッド脇へ近づく。
音もなく入室し、接近していた彼に京子は驚かなかった。いつもは骸の気配だけで震え上がる彼女の新鮮な反応に、骸は一度瞬いてから口を開く。
「―――なぜ歌っているのですか?」
眠りが浅い犬と千種が起きないよう、少女にも聞こえるかどうかギリギリの声量で問うた。
聞き取れたらしい京子はゆっくりと瞬くと、犬と千種に視線を落とした。
「二人がうなされてたんです。どうすれば良いのか分からなくて……私のお母さんがしてくれたように子守唄を」
子守唄――子供をあやしたり、寝かしつけたりするために歌う唄。
知識としては知っている。
しかし実際に聞かされたことはない。
骸も、犬も、千種も、それがどういうものかなんて知りはしない。
「そうしたら、少しだけ安らかな顔になったから……」
京子の手が千種の額に触れ、眠る少年が無意識にだろうが細い指に擦り寄る。
骸の口の端が歪む。
なんて自分達に不似合いな光景だろう。
だがどうして、こんなにも眩しく映る。
――この"絵"を、見た事がある。
まだイタリアにいた頃、雨露を凌ぐ為に忍び込んだ教会で。
月光でわずかに存在を主張していたステンドグラスの、マリヤ・マグダレナ。
その美しく冷たい微笑みを自分達三人は叩き壊してやりたかったのに、結局誰も実行しなかったおかしな夜。
気持ち悪い、と骸は思った。
生温いものが自分の中に入りこんでくるような感覚。
それは目の前の少女から与えられているようで酷く不快だが、不思議と彼女を殺そうとは思わない。
じわじわと浸食してくるものについて、考えるのを止める。
それは突き止めなければ致命的ななにかになりそうな気はした。しかし、深く追求するよりも今は体のなかから浮いてくる衝動に従いたい。
「――京子、来なさい」
少し奥まった場所に座っている京子を手招く。
本当に珍しい事に、いつもなら怯えて逃げる彼女は大人しく近づいてきた。
シーツに包まっている体を抱き上げて右腕に座らせる。
子供にするような抱き方のまま犬と千種にシーツをかけてやり、部屋の外へ出た。
「む、くろ、さん?」
体勢が不安定なのか、居心地の悪そうな京子が覗き見てくる。
「興味が湧きました」
「え?」
「歌いなさい。僕のために」
コモリウタ。
傷口に沁みる消毒液のような心地をもたらす、知らない歌。
京子が骸の首に腕を回してくる。
今日の彼女は本当におかしい。自分から決して近寄ってこないのに、今は骸の頬に擦り寄ってきた。
「京子……?」
すりすりと猫のように頬と頬を合わせ、まるで骸の頭を抱きこむようにひしと縋りつく。
「変な子ですね」
常なら無下に振り払っただろうが、今日はおかしな気分だ。
囚われの少女の振る舞いになにも言わず、少年は自室の扉を開けた。
また、歌が流れ出す。
闇の子供達の為に紡がれる、子守唄が。
―――胎児が眠る羊水とはかけ離れた、水の中に自分が在る。
夢現の意識が思い出すのは、彼女が歌った子守唄。
捕らえ、支配していたはずの少女はなぜ、あんな慈しむがごとき表情をしていたのか分からない。
骸の意識は再び深遠へと落ちていった。
誘拐され、黒曜に慣らされてきたくらいの京子と、蹂躙者のおはなし。
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